32.この店が
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「契約書も持たずにのこのこ一人で来るなんて」
頭がズキズキと痛い。それでも必死に目をこじ開けると、長い黒髪を乱した唇の真っ赤な女が、ヒールの高い靴で容赦なく俺の腹を蹴るところだった。抵抗しようとしても、縄で手足の自由を奪われ横に転がされていることに気付く。せめて声は上げないようにと歯を食いしばるが、くぐもった呻きが漏れた。
「最後まで役に立たないガキね」
「おい、カザミドリは今日『臨時休業』だと」
どこかからやってきた男は、下卑た笑いを向けながら女に報告する。自分の店の名前が聞こえ、ようやく意識がはっきりとしてきた。
そうだ。確かスザンナと話をしていたはずなのに、急に頭を強い衝撃が襲い、意識を失ったのだ。おそらく、この男に背後からやられて。
「あらそう。なら今のうちに更地にしちゃおうかしら。契約書の複製はあるし、本物は『奪われた』って目撃者も証言者も大勢いる。あなたはこのガキを始末して。ヘマすんじゃないわよ」
「へへっ、はいよ」
男は金で雇われてでもいるのだろう。スザンナの発言には興味もなさそうに、『始末』という単語にだけ反応し、俺に近づいた。その後ろでスザンナは部屋を出て行こうと背中を向けてしまう。
「ッ、おい待て!」
大声を上げて頭も腹も痛いが、それどころじゃない。
「カザミドリ、には、手を出すな……ッ」
振り返り、俺を見下ろす。女はゾッとするほど冷たい目をしていて。
「そういう話、だったろ……っ、最初から、土地だけって、」
「イイこと教えてあげましょうね、ボク」
まるで親しい友人を迎えるように、明るく声を弾ませる。初めて声をかけられたときを思い出した。こんなふうに、相手を油断させ、耳障りのいい言葉をならべて、
『今ならまだやり直せるわ。わたしが、買ってあげるから』
なんでこんなことになってしまったんだろう。思い出すのは、後悔の記憶ばかりだ。
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「知ってる? 昨日、またあそこで乱闘騒ぎがあったって」
「あら、どこで?」
「あそこよ、ほら……若い男の子が小さい子どもを育ててる武器屋」
「あぁ……あのご家庭ね。本当の兄弟じゃないんですってねえ」
「若いのに苦労してるんだとは思うけど……子どもの方からお客さんに手を出したって」
「まあ怖い。やっぱり男手ひとつじゃ、ちゃんと子育てできないのねえ」
「やめろ、ライ」
すぐさま飛び出していこうとした俺を、スヴェンが抑えつけた。なんで、と振り返っても、スヴェンは鋭い顔つきを崩さない。やり場のない怒りをどうしようもなくて、「クソッ」とその場で吐き捨てた。
「あいつら、なんも知らねえくせに。先に店の中で騒いで剣振り回してたアイツらが悪いんじゃねえか!うちの剣のこともボロクソに言いやがるし!」
「だが先に手だしたのはテメェだ、バカ」
「けど!あのままじゃ店がめちゃくちゃになっちまっただろ!?」
声が大きかったと気付いたときは遅く、噂話に花を咲かせていた婦人たちはハッとした様子でそそくさと俺たちの前から逃げていった。イライラは収まらないまま、買い出しを終えた俺たちは店に戻る。
「このまま黙ってんのかよ、スヴェン!あんなヤツら町に置いといたら、俺たちの店が――っ」
「るっせーな、仕方ねーだろ」
「仕方なくねえ!騒ぎも増えたし、客も減ったし!全部よそモンが町に入ってくるようになってからだ!なあ、アイツら追い出そうぜ!」
「アホか。『うちの店が儲からないんで出てってくれませんか』っつーのか」
「そ……っ、れは、」
「くだらねえこと考えてる暇あったら剣の腕でも磨け。ちょっとくらいウチの店の宣伝になんだろ」
「ちょ、ちょっとってなんだよ!俺は強いんだからな!次の大会で今度こそ優勝してやる!」
大人用の剣を軽々と振り回せる俺は、周りの大人たちの持ち上げもあって、自分のことを『強い』と思っていた。少なくとも同じ年頃の子どもに敵はいない。そのうち大人より、誰より強くなって、どんな相手にも負けない男になる。そしてこの手で、大事なものを全部守れるのだ。そう信じて疑わなかった。
なのに。
「そろそろ店もしまいだな」
「……え?」
ある日、売り上げを計算しながら、スヴェンがぽつりと言葉を漏らした。
「どういうことだよ」
「……そのまんまだ。次は別の町で道具屋でも始めっか」
冗談みたいに軽いスヴェンの言葉が、とても冗談に聞こえなくて。気付けばなにかを叫んで、店を飛び出していた。ふざけんな、とか、スヴェンのバカ野郎、とかだった気がするけど、正直覚えてない。
覚えてるのは、その日から度々店に来ては、声をかけてくるようになった女がいたことだ。
「こんにちは、ライナルト」
にこにこと愛想の良い笑みを浮かべ、黒髪を後ろで束ねた穏やかそうな女は、よくスヴェンに会いに来た。毎回俺に挨拶するのも忘れない。スヴェンは嫌そうにしていたけど、女は何度も何度も会いに来て仕事の邪魔をするので、来る度にスヴェンが店の外に連れ出す、という状態だった。一体外でなんの話をしていたのか、このときの俺は知らなかったけど、今思えば、そういう話だったのだ。
「ライナルトは、この店が好き?」
そういう話が俺に持ちかけられるようになるのは、時間の問題だった。
「ったりめーだろ」
「そうよね……でも、もうすぐ閉店してしまうっていう話、本当なの?」
「ッ!?」
女の言葉に耳を疑った。まさか、スヴェンがその話を外で、しかも他人にしているなんて思わなかったから。そんなことにはさせない。させたくないのにと、唇を噛み締めてなにも言えなかった。その態度こそが答えになっているとも、スヴェンがいない二人きりのこの状況がたまたまではないことにも、なにも気付かないまま。
悪魔が囁いたのだ。
「私なら救えるかもしれない」
「……え?」
「今ならまだやり直せるわ。わたしがこの場所、買ってあげるから」
最初は、女の言う意味がわからなかった。商品じゃなくて、場所を買う?
「場所って……?」
「あ、心配しないで。買うのは土地だけよ。お店はできれば、このまま続けてほしいの」
「わたしも、この店が好きだから」
**
「そんな話、信じる方が馬鹿なのよ」
俺のそばでしゃがみ込むと、髪を掴んで無理やり顔を上げさせ、吐き捨てた。見開かれた女の目に、顔を歪めた俺の無様な姿が映っている。
「世の中誰も信用しない人間が勝者になれるの。そして勝つ人間は何をしても正しい。何をしても許される。それが世界のルールだから」
どうしてこんなことになったのか。
女は勝って、俺は負けたからだ。
女が正しい。何をしても許される。
俺が正しくない。何を訴えても、届かない。
「負け犬の遠吠えは誰の相手にもされないでしょう? 今のあなたのように。自分の主張を通したいならまずは勝つこと。勝つためには自分以外誰も信用しないことね。わかった?愚かなボウヤ」
俺が、この女を、信用したせいで。
だからこうなってしまったのか。世界のルールなんてものに、そんな、そんなものに。そんなものに負けるのか。負けたのか、俺は!
俺は負けるのか。店を守れないのか。スヴェンを、助けられないのか。守れないのか。大事なものを何ひとつ。助けられなかった。俺が弱いから。
俺がこの女を、よそモンを、信用したから。
信用したせいで!
悔しい。悔しい!!
悔しい、悔しい悔しい!!!
『俺が、この店も助けたいっつったら、』
もう二度と!
『アンタは手伝ってくれんのか』
もう誰も!
『わたし、自分のために勝手にやってるのよ』
誰ひとり!なにひとつ!
『あなたも勝手にわたしを利用していいわよ』
信用なんてするものか!!!
「くっ……そがああぁあああ!!!!」
「せいぜい悔やみなさい。……あの世でね」
女は俺を置き捨て、今度こそ踵を返した。入れ替わりで近づいてくる男は、剣を握り、俺に向かってまっすぐに振り下ろそうとしている。覚悟した、その瞬間――
ガシャアアアアアアアン
大きな音と地割れのような響きと共に、天井が崩れ落ちた。
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