10.返事をして
日が傾いてきて、森に薄暗い闇が迫ってきた。
「ヒルデは!?」
急いで戻ってみても、集まっていた子どもたちは首を横に振るだけだ。サッと顔を青くして、わたしは慌てて森へと引き返した。
もう降参だから、お願い出てきて、と。先ほどと同じ言葉を繰り返し叫んだ。昼間はあれほど明るかったのに、徐々に光がなくなっていく森の視界は悪くなる一方だ。
いくら立ち入りを制限されていない区域でも、夜の森に入ることは認められていない。村の北に広がるフィーネの森の、さらに奥には、野犬や野鳥が縄張りをつくっていて危険なのだ。村におりてこない限りは無害として、猟師にも退治されないのである。
ただし夜になると、奴らは行動範囲を広げるという。
「ッ、ヒルデー!どこなの!?返事をして!」
目を閉じて耳を澄ませる。どんなかすかな声も、物音も、息づかいすらも、聞き逃すものか。緊張と走っていたのとで背中は汗でびっしょりだ。服が張り付いて気持ち悪い。
耳に痛いほどの静寂に耐えきれず、唇をかんだ。神経を研ぎ澄ませながら、わたしは次に移すべき行動を考え、頭に叩き込む。
――いちど教会に戻る。もうすぐ帰るだろう神父様を、頼る。子どもの足では限界があるから。
目を開ける。すっと息を吸い込んで、来た道を戻ろうと教会に足を向けた。
その時。
「――、」
「っ、ヒルデ!? ヒルデ!」
小さく、本当に小さく声がした。女の子の声だ。もう一度呼ぶと、今度ははっきりと返事があった。声のした方角に向かって全力で走る。そんなに遠くない!
「ヒルデ!」
「おねえちゃん……?」
ヒルデは、大きな木の根元から二メートルほど垂直に降りた先の、地面に座り込んでいた。ちょっとした土手だが、子どもにとっては小さな崖みたいになっている。おそらく木の後ろに隠れようとして足を滑らせたのだ。わたしは飛び降りて彼女の元へ向かった。
「よかった…怪我はない?」
「足がいたいよ……」
瞳を揺らし、声を震わせている。慌てて確認すると、右の足首が少し赤く腫れていた。落ちた拍子に挫いたのか。おそらく骨折まではしていないと思うが。
「いたい……いたいよぉ……フランさま、うぅ、うぇっ、ふぇぇっ」
ずっと我慢していたのだろう。わたしに会って気が抜けたのか、ヒルデはまるでダムが決壊したように瞳から涙を溢れさせた。しまいには大声で泣き出してしまった彼女の背をさすりながら、腫れた足首にそっと触れる。少し熱感があって、無理に動かすのは躊躇われた。
――背負っていくしかない。
しかし戻るべき道は、二メートルほどの高さとはいえ、子どもにとっては十分に崖といえる土手を超えた先にある。大人ならともかく、子どものわたしが、子どもを背負ったまま、上れる高さか―――答えは否だ。
迂回する道はあると思う。でも周りも暗くなってきている中、できるだけ早く、迷わずに、教会まで無事に帰れるかどうか。子どもを背負ったままで。――正直自信はない。
――ヒルデを置いて、いったん助けを呼びに戻るべきだ。それが最善だ。
わたしの判断は間違ってない。
「……ヒルデ」
「うぅっ、お、ねえちゃん……?」
「わたしの背中にのれる?」
なのに。泣きながらわたしの服に縋りつく、わたしより小さな女の子に、それが言えなかった。だから子どもは苦手なのだ。いつだって最善を選びたいのに、それができない。わたしは未熟な人間だった。
「ふえぇえっ、うぅっ、いたいぃ」
「……やっぱり足首をなんとかしないとね」
身体中をまさぐってみるが、けっきょく大したものがなくて服を破いた。お父さんごめんなさい。
「ちょっと痛いけど我慢よ」
「ふぅっ、うん…っ」
いいこね、と絶えず声を掛けながら、足首に布を巻き付け、包帯代わりにして動かせないよう固定していく。彼女の足は小さくて柔らかくて、けれど、慣れない手つきで懸命に処置をしているわたしの手は、もっと小さくて、もっと頼りなかった。
「ほらできたわ」
(……これで大丈夫よね?)
不安な顔を見せるわけにはいかない。心の声に無視をして笑いかける。ヒルデはこくりと頷いてくれた。
「もう大丈夫だから。さ、帰りましょ」
(本当にただの捻挫なの? 骨折なら添え木が必要だったんじゃない?)
うるさい、大丈夫よ。
内心の不安を覆い隠すように、ヒルデの足を撫でる。大丈夫、大丈夫と言い聞かせる。なかなか泣き止まないヒルデに。――自分に。大丈夫よ。きっと。
――本当に?
わたしは医者じゃないでしょ。前世でも怪我の治療なんてしたことないくせに。捻挫も軽いのしかないし、骨折なんてもっとない。これで正しいの?処置の仕方は合ってるの?
(……………これ、)
足首に触れたまま考える。
――治らないかな。今すぐ。ここで。
そうしたらきっと痛くない。この子も泣き止むのに。日が完全に暮れてしまう前に家に返してあげられるのに。
撫でていた手を止め、じっと見つめる。布の上から患部に触れる指先が熱を感じた。
(……治りなさいよ)
痛みなど消えればいい。
治れ
「……アイリンおねえちゃん、」
「………」
「いたくないよ」
「……え?なに?」
「もういたくない。あるける」
意味を理解する前に、ヒルデはぴょんと勢いをつけて立ち上がった。驚いて目を丸くしていると、彼女も信じられないというようにその場で飛び跳ねる。さすがに止めたけど、ヒルデの言うままに巻き付けた布をほどいてみると、赤みも腫れもすっかり引いている。健康的な足だ。まるでそこに初めから怪我などなかったのように。
なんで?と何が起きたかわからない私たちはお互いに顔を見合わせる。
「……と、とにかく、歩けるなら帰りましょう」
「うんっ」
考えるのは後だ。怪我がないなら、二メートルくらいよじ登れるだろう。辺りはもう夜の気配が近づいてきて、一刻の猶予もない。そうして手を繋ぎ、来た道を帰ろうとした。
その次の瞬間、
――グルルル……
背筋が凍った。