たぶん閉じている角〜妹
この小説は完全なフィクションです。
姉が若干引き攣った顔で笑っている。天下のコーヒーショップ。店内では最近資金繰りが厳しくなった悪代官たちが、夜な夜なならぬ昼な昼な悪巧みを繰り広げる簡易料亭だ。
隣の席では仕事帰りの悪代官が上司にいかに毒を盛るかを笑顔で話し合っている。もう雑巾絞り汁なんていうのは古いらしい。最新の毒について議論が交わされているが、
「おい、それ犯罪でしょ」
とツッコミたくなるくらいの毒まででてくるが、黙って聞かなかったことにする。参考にとどめておこう。
さしあたって、私の現実的な問題は、目の前で感情と闘っている姉の存在で、彼女の反応を待っているのである。
姉は、私にとって母親みたいなものである。うちには母親はいるけれど父はいない。離婚後、私たちを育ててくれた母は父親化し、年を重ねた姉は母親化した。
いや、彼女は最初から母親だったのかも知れない。小さい頃の写真で、心に残っているものがある。姉と私、弟の三人で写っている。三人とも、明らかに安売りショップで買った揃いのTシャツを着ている。中央でこれでもかというほどの笑顔を見せている姉と私は、前髪から眉毛の間に文庫本三冊の厚さくらいの距離がある髪型をしている。弟は丸坊主。多分、男三兄弟だったのなら、髪型は坊主で統一されていただろう。
中央の姉は両腕に私たちを抱えている。向かって左手の弟は右頬を押さえて泣いている。右手にいる私は姉に肩を抱かれながら弟の心配をしている。多分姉にひっぱたかれた頬を。私たち姉弟を象徴するベストショットだ。
小さい頃、姉は一族のアイドルだった。初孫で頭脳明晰、明るくて活発。第三者的に容姿がいいということはなかったが、我が一家のアイドルになる程度ならなんの問題もなかった。
私は激しくライバル心を燃やしていたように思う。一生懸命勉強した。それでも姉にはかなわない。姉が家で勉強している姿など見たことないのに。
やがて姉は地元の期待を一身に背負い進学した高校を中退する。
普通ならそこで勝利を感じるのかも知れない。姉がアイドルの座から転落したのは明らかだったのに、私は勝利を確信することはできなかった。高校三年のとき、目指した大学は姉の愛した男の母校だった。一浪してまでも受けた学校にはことごとく無視された。
第二希望の大学に進学したころか。姉は立派にシングルマザーになっていた。慰謝料も養育費ももらわないなんて、なめきった、ひとが良すぎる状態だ。貧乏がどんなにつらいか、痛いほど知っているはずなのに、何を考えてるんだろう、それが正直な感想だった。
姉は多分悪いこともしてきている。お上のお世話になったことを目の当たりにしたこともないし、そんな場面にも遭遇したことはないが、なんというか王者の風格があるのだ。身内じゃなければ安易に話しかけると、しばかれそうな雰囲気を醸し出している。
でも本人は全く自覚がなく、時折その点で悩んでいたりすると知ったのは最近のことだった。
姉は娘のことをあほほど愛している。だからものすごく厳しいし、ものすごく甘い。娘のことを否定することがない。はたと気がついた。姉にはさんざん、
「目が離れてるよね」とか、
「なんでそんなに勉強してるのにできないんだろうね」とか言われてきたけれど、一度も否定されたことはない。
母は――なんというか、悪気はなかったのだろうけれど、よく私たちの存在を否定した。
「あなたたちがいなければ、今頃お母さんは……」
そういう仮定の話が多かった。そういう会話は、折檻の場所でおこなわれたわけでも怨みのこもったものだったわけでもなかったが、正直、限られた時間しか取れない家族団欒の場で繰り広げられる話題ではなかったと思う。姉は決して口にしないが、深く傷ついているのであろう。誰のことも否定しない。
そこに気付いてから、私にとっての母親は姉だと思うようになった。
前置きが長くなってしまったけれど、私はたった今、姉であり母であるひとにある告白をしたのだ。それは彼女が今まで過ごしてきた過酷な人生において、かなりたいしたことじゃない部類にはいるはずだ。
「だから、ごめんね」
返答に困っていた沈黙を我慢できずに切り出したのは私のほうだった。姉は息をするのも忘れていることすら忘れているように、喉の詰まった顔をしたまま、自分のコーヒーカップの中を見た。
「まぁ……これは報告だからコメントするべきじゃないんだと思うんだよね」
「いえ、できればコメントを」
酷なことをいっているかもしれないと思いながらも、私は姉にコメントを求めた。
姉はゆっくりと周りを見回し、やっと息をしてから姿勢を正して
「では、まず個人的な見解から」と言った。
「私個人の意見としては、困惑しているし、ちょっとむかついている。あなたにではなくやつにね。そして姉としての立場から言えば、さらに困惑している。曲がりなりにも捨てた男だし……だめだと思ったからね。でもそれは私個人の見解で、あなたには合わない人かどうかはわからないから、お勧めもできないし、否定もできない」
そういって、自分の発言を確認するように、何度か頷いた。
「お姉ちゃんはまだ彼のこと好きなの?」
「いや、好きってほどじゃない。だけど……」
また息をつめて考える。
「なんだかやっぱり、ちょっと悔しい感じはするよね」
職場が移動になった私は、その歓迎会の二次会で行った店で一人の男性と知り合った。そして酒の勢いも手伝ってまぁ『いいなか』にはなったのだが、それが姉の元彼で、しかも別れる別れないとやっていた時期に出会ってしまったらしく、すべてを後から聞いた私はけじめをつけるべく、姉へ告白となったわけだ。
「じゃあ、祝福はしてもらえないわけだ」
「祝福ぅ?」
どこから出ているんだろうというほどゆがんだ声でそういいながら、やっと姉らしく笑った。
「そんなことできるわけないじゃない。こいつぁだめだって私思ったんだよ? それを祝福はできないでしょ……こういうことだけはないと思ってたけど、そうきたかぁ」
たいして可愛くはないけれど、表情豊かに顔をくちゃくちゃにしていう。
「祝福できないの?」
「今はね。ちょっとは気を遣ってよ。忠告くらいしかできないわ」
「忠告はなに?」
「んん……食い物にされないように、かな」
「お姉ちゃんは食い物にされたの?」
「いやされてないけど……ううん……やつのこといろいろ知ってるとなると説明しづらいものだね」
腕を組んで言葉を捜す。大丈夫、お姉ちゃんがそんなにうまい言い回しができると思ってないから。
「やつのこと知ってるって、それは彼もお姉ちゃんのこと知ってるからお互い様でしょ」
姉は嫌っていうほど、その二重の目を開き驚きを表現してから、笑った。
「私のこと知ってるわけないじゃない。やつは自分のことをしゃべるのが大切で私の話なんて 聞いてないんだから。あんたたちはちゃんと会話が成り立ってるわけだよね、じゃあいい。祝福するよ。そっか、すごいな。私は私の話、一切聞いてもらえなかったもん」
いやみには聞こえなかった。あからさまな敗北宣言に思えた。
それからは全く違う話をして、別れ際にきいた。
「いわないほうが、よかったかな」
姉は苦悶の表情を浮かべたことなど、一切感じさせない笑顔でいった。
「いや、すっきりした。ありがと。やっぱり全面的に肯定はできないけど、あなたが幸せと思うならがんばって」
「うん、ありがとう」
私たちは駅で別れた。
姉は私がホームに降りていくまで見送ってくれた。本当に屈託のない笑顔だった。ちょっとした未練や後悔が残っていたのかもしれない。それがすべて取り除かれたようなすがすがしい笑顔だった。私は電車の座席に座って、彼にメールを打った。そういう約束になっていた。
『お姉ちゃんとは話しました。万事OK』
送信の画面を見て、もやもやした。
すっかり問題はなくなったはずなのに、姉の言葉が気になった。彼は姉のことを知らない。私のことはどれくらい知っているんだろう。電車がゆっくりと動き出した。私はそうそうに携帯を鞄にしまった。夜の世界を写す窓には自分の顔が写っていた。その向こうに彼の顔を思い出そうとしたけれど、元彼女が姉、というハードルを失った彼をうまく思い浮かべることはできなかった。




