「選ばれし民」
「夕方に入ったね」
ショアの声に顔を上げると、青空に淡いオレンジ色が流れこんでいた。東の島の西部に入ったのだ。このまま歩いていけばどんどん日は沈んでいき、島の西端で、海面を光を集めた鏡のように輝かせながら、ずっと水平線に残る夕日に会うことができる。
「カナンはどうするの、これから」
「――とりあえず一度戻る。あの人なら、何か知ってるかもしれないし」
カナンの言葉に、ショアは何度も頷き
「そうだね。島主の情報網はすごいもんね。めったに姿を見せないのに、なんであんなに島のことを知ってるんだろう。子供が生まれた当日、まだ報告していないうちからお祝いが届くってみんな言ってるしね」
「予定日直前から張り込んでたんじゃねえの? 『さすが島主』って言われるのがあの人の喜びだから、それくらいはやるだろ」
「ひどい言いよう」
そう言ってショアは小さく笑う。そして、
「ま、早く姿を見せて安心させてあげなよ。それに――お小言は早いうちにもらっといた方が軽く済む」
ショアの言葉に、今度はカナンが笑う番だった。
歩き進めていくうち空の茜色が濃くなり、波音がはっきりと聞こえてくるようになる。
やがて目の前に、赤く煌めく水面が開けてきた。少しずつ減ってきた足元のクローバーが途絶え、かわりにさらさらとした細かい砂が足を埋める。波打ち際を前に、ショアが立ち止まった。
「じゃあ僕はここで」
言いながらショアが目を向ける先を、カナンも辿る。
海辺を赤々しく染める夕焼けの空のずっと向こうに、そこにだけ夜の色が流れ込んだような紫の気をまとわせながら、真っすぐに伸びる一本の木があった。遥か向こうにあるはずなのに、広がる枝で開く白い花は煌々と輝き、その存在を示していた。
島のどこからでも望める『聖樹』――なのに何となく、この木を見ないようにしてここまで来た。今まじまじとその木を見て――一カ月眠っていたというのは本当だったんだな、カナンは思った。
眠る前より、花が一つ増えている。普段は花の数なんか気にしないのに――『カナン、話があるんだけど』ルカの、思いつめた目を逃れようとして、数えたんだった……。
「カナンが一ケ月も寝るから、島主はご機嫌ナナメだろうから。とばっちりで『神の雷』をもらわないように、早々に退散するよ」
声の主を見れば、悪戯っぽく笑ったショアがこちらを見ている。カナンは目を逸らし、
「『神の雷』なんてただの伝説だろ。そんなものがあったとしても、親父には使えない。だって親父には爺ちゃんと違って翼がない。もうみんなと同じ、ただの人だ」
「島主様の前では『鳥人魚』って言わないと。『下等な人間と我々を一緒にするな!』ってまた怒られちゃうよ」
鳥人魚――それがこの島の人たちの正しい呼び名である。
その名のとおり、かつて彼らは鳥のような翼を持ち、人魚のような尾びれを持っていた。しかし地上で暮らすことを選んだとき尾びれを両足に引き換え、そして楽園《この島》にたどり着き、飛ぶ必要がなくなってからは翼も失われ、今や、かつて外界に存在したという「人類」と同じ姿になった。
だから誰も、「自分たちは鳥人魚」等と意識したりしない――島主を除いては。
「じゃ、ひとまずこれで。いつでも呼んで。カナンのためならどこにでも行くから。カナンは僕の命の恩人だからさ」
「ああ、また」
気まずさを隠すように、カナンは足早にショアから離れた。
押し寄せる波が足にかかったとき、白く細い道が現れた。カナンはその道を一人、まっすぐ歩いていく。
『カナンは僕の命の恩人だから』
言われるたびに、胸奥がひやりとする。
あのときはただただショアに消えて欲しくなかった。だけど――きっと、それだけじゃなかった。
この楽園の生きることを許された「選ばれし者」として、「自らの消滅を望むこと」=「罪悪」だという思いが根底にはあった。そんなことは絶対に許されるはずがないと。
『いいんじゃないかな』
あのとき、ルカはそう言った。『消えたいと思うなら消えてもいいんじゃないかな。彼が決めたことなら。助けてやるのがショアのためだなんて本当に思ってるなら、それはただの思い上がりだよ』
それで俺とルカは初めて言い合いになって、俺はショアの元に残り、彼は他の仲間と一緒に立ち去った。意地もあった。最後の一人になっても、俺だけは見捨てないって。
でも今は思う。あの選択は正しかったのか。ショアは本当に俺を恩人だと思っているのだろうか。
本当に「あのとき消えなくてよかった」と思っているのだろうか。
絡みついてくる思考から逃れるように足早に歩いていたのだけれど、突如カナンは足を止めた。意を決したかのように、背後を振り返る。その先には、夕日で赤く染まった無人の白浜があるはず、だった。
「カナーン!」
そこにはショアの姿があった。やっと振り返ったね! とばかりに満面の笑顔で、ショアは大きく手を振っている。昔のようだった。
負けないように大きく手を振り返しながら、どうして目の奥が熱くなるのか、カナンには分からなかった。