「大人になる」ということ
やがて浜辺から立ち上がったショアは、二度と取り乱すことはなかった。泣いたり喚いたりはしなくなったが、大笑いしたり怒ったりすることもなくなった。
末っ子のせいか一人でいることが嫌いな甘え上手で、いつも誰かと一緒にいて、自分の姿を見ると、「カナーン!」と大きく手をふって笑顔で駆け寄って来た。そうして文学団の作る冒険譚を一気読みした感想やら、工芸団で自作した竹細工の創作過程やらを感情の走るままにしゃべり続けた。
表情に気持ちが表れてしまうので時にハラハラさせられたし、イライラさせられたこともあったけれど、屈託ない笑顔をみると、「まあいいか」となってしまうのだ。それはみなも同じだったようで、彼の姿をみかけた誰もが、つい声をかけずにはいられなかった。
だけどあれ以来、あれだけハッキリ見えていた感情が見えなくなった。
いつも口元は笑っていたけれど、それでいてその目は静かだった。
誰とでもそつなく話し、穏やかに笑いながらも、フッと居なくなることもよくあった。以前から本好きではあったが、かつてのように新しい冒険譚などの物語ではなく、「古い」と敬遠されがちな、先代たちの書いた難解で分厚い本を読んでいることが多くなった。眉間に深いしわを刻み黙々と本を読む姿には鬼気迫るものがあって、以前のように「何読んでるんだよ!」と気安く近づかせない空気がショアの周りを取り囲んでいた。
姿を見ると笑顔を見せることは変わらない。だけど大きく手を振ることも、大きな声で「カナーン!」と呼ぶこともなくなった。
『大人になったんだよ』とみんな口々に言った。
確かに、そういうことは島でよくあった。
毎日、子供みたいに楽しく大騒ぎしていたヤツが、失恋だとか家族の消滅だとかをきっかけにふさぎ込んでしまい、人が変わってしまうということは。
みんながここを「楽園」と呼ぶ最たる理由は、「望むことは叶う」という事実だ。
明るい日差しの中にいたければ、東の島に行けばいい。夜にいたいなら、西の島に行けばいい。ずっと夕日を見つめていたいなら東の島の西端にいればいいし、ずっと朝日を浴びていたいなら東端に、昼がいいなら中央部にいればいいのだ。島内のあちこちに雨や曇りや雪が見られる場所もあれば砂漠も氷の大地もある、寒さも暑さも好きなだけ体感できる。
島内にはさまざまな木の実やら花やらがあり、それらは多種多様に美味であり、尽きることはない。そしてみんな好きに島内をふらついているけれど、お互いが「会いたい」と思えばなぜか会える。
そんな毎日の中で、「どうあがいても望むものが叶わない」という事実が受け入れがたいのは、当然なのかもしれない。
「他人の気持ちと生死は操れない」分かり切った事実を眼前に突きつけられたとき、その衝撃にどうしても耐えられず、自ら消滅してしまう者は少なからずいた。
「楽園にいながら命を放棄するなんて、罰当たりな」そう顔をしかめて言いながらも、誰もが思ったに違いない。
「自分がそういう目に遭ったら、どうなってしまうんだろう」と。
きっと「そういうこと」がショアにもあったんだろう。誰もが通る道だ。それが成長ということだ、確かに、みんなが言う通りかも知れない。
だけどカナンは、ずっと思っていた。
ショアは一度、死んでしまったんだと。