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卅と一夜の短篇 

雪掃きしたら雪見酒(三十と一夜の短篇第8回)

作者: 惠美子

『続日本紀』巻十六より

――天平十八年[丙戌]春正月癸丑 (ついたち)。廃朝ス。


1.左大臣橘諸兄の感慨


 天平12年(740)9月大宰府で藤原広嗣の乱が起こり、その時より5年に亘る聖武天皇の彷徨が続いた。始め(いくさ)を避けようとしているとか、天武天皇の壬申の戦いの道行きを再現して心機を改めようとしているのかと言われていたが、()()()()(らき)難波(なにわ)と転々とし、その度に都に定めようとされた。複数の都を築いてその機能を分担させようとしていたのか、各地に自ら篤く信仰する仏教を根付かせようとしていたのか、聖武天皇の意図ははっきりと読めない。

 天平17年5月、都を何処に定めようかと遂に天皇からの下問があった。官人たちの大多数は()()が都に良いと強く上申し、ようやく寧楽への還御となった。天平17年は地震や火事が頻発し、民の心を鎮める必要もあった。

 しかし、8月下旬聖武天皇は難波宮に向かった。体調が良くなかったのを押しての行幸であった。9月には病床に就き、一時かなりの重症となった。息女の阿倍内親王が皇太子となっていたが、独身であり、次の後継の有力者であった息子の安積(あさか)親王は天平16年閏1月に病死していた。皇族――、天智・天武天皇の孫王たちが難波宮に集められ、寧楽宮に置かれていた鈴印を取り寄せられた。難波宮は騒然となった。

 しかし、聖武天皇は持ち直し、9月末には寧楽宮に帰還した。

 ひとまずは寧楽宮での現状維持が続くか――と、百官(ひゃっかん)百姓(ひゃくせい)は将来に不安を感じながらも安堵した。

 さて、この頃の太政官の一の人は左大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)であった。諸兄には、――様々な巡り合わせのお陰があってだが――、素寒貧の五世孫がここまで上り詰めたある種の達成感と、太政官のトップとなれば天災・人災、各種の厄介事に知らぬ顔をすることもできず、若い頃には夢にも思わなかった官職の重責に振り回された感も大きくあった。

 異父妹光明子が聖武天皇の皇后なので、天皇の義兄の立場にある。しかし、諸兄は既に60歳を過ぎていて、天皇・皇后は揃って45歳と年齢差があった。母親の(あがた)犬養(いぬかい)(たちばなの)三千代(みちよ)が敏達天皇の四世孫 ()()(おう)と結婚し、諸兄(三千代の姓を受け継ぐ以前の名は葛城(かつらぎ)王)、()()王、牟漏(むろ)女王の兄妹を儲けたが、宮廷に出仕して仕事を続けているうちに藤原(ふじわら)不比(のふひ)()と知り合い、美努王と別れ、不比等と再婚した。その結婚で生まれたのが光明皇后であり、もう一人が諸兄の妻となった多比(たび)()である。妹の牟漏が不比等の二男 房前(ふささき)の妻となっているので、藤原家と橘家の繋がりは複雑であるが、深い。

 そして天皇家と藤原家の縁も深い。天智天皇と藤原鎌足から始まり、不比等とその四人の息子たちはその時々の当代と協力し、政治(まつりごと)を行ってきた。

 藤原四子たちが天平9年(737)に天然痘で相次いで亡くなり、諸兄が朝廷の首班となった。やがて四子の子どもたちが成長してきた。式家 宇合(うまかい)の子広嗣が叛乱を起こして聖武天皇の御代を騒がせたが、ほかの子息たちは実力を蓄え、じっと(とき)を待っていた。特に妹光明皇后は藤原南家の二男仲麻呂を気に入っているようだ。光明皇后にとっての甥は仲麻呂一人ではなく、諸兄の嫡男奈良麻呂も同様であったが、仲麻呂が40歳の男盛りであるのに、奈良麻呂は25歳と若すぎて、活躍を期待するのにはまだ判断ができないと思われているようだ。

 諸兄は年齢の離れた異父妹でもある妻の多比能が可愛い。多比能との間に生まれた嫡男奈良麻呂も可愛い。奈良麻呂が賢く、一本気な性格をしているのは親バカを承知で褒めたくなる。その為に光明皇后には奈良麻呂が経験を積んで見込みがありそうなら引き立ててくれと、何度も懇願している。

 諸兄は結婚が遅かった。実際交際する女性がいなかった。30歳を過ぎてやっと気の合う女性と知り合った。その女性との間に子を生した。相手は出羽国から流れてきた俘囚(ふしゅう)の一家の娘で、橘家で召し使われていた女性だった。玉のような女児を生し、諸兄はその子も可愛がった。しかし、如何せん母が俘囚の出であり、高い教育を施してこなかった。

 それらが理由で、天平9年の新春に聖武天皇に新しい夫人を容れようと話が出た時は後宮に我が娘ではなく、弟の佐為の娘 古那可(こなか)()を入内させた。皇后が既に後宮で君臨しているとはいえ、左大臣の姪として居場所がない訳でもなかろうに、帝寵を集められず、懐妊もなく過す身を詰まらなく感じているようで、伯父に愛想がよろしくない。


 ――母は見た目には大人しやかで麗しかったが、肝が据わっていたし、どこにそんな力がと思うほど強かった。牟漏も皇后も容姿だけでなく、そこのところがよく似ている。だが、古那可智は性質が似なかったようだ。確かに容姿の良さだけでは後宮勤めはできないのだな。


 妻の多比能は性格が大人しすぎて宮廷に仕えるのには向かず、娘には生母の身分から左大臣家の大姫としての教養を授けなかった。そこが諸兄の弱味であった。

 牟漏は母の跡を継ぐように後宮で勤め、夫の房前を助けたし、仲麻呂が房前の娘 ()比良(ひら)を妻とし、袁比良は後宮で光明皇后の側近く仕えている。


 ――元明天皇から橘の姓を賜った程の母には誰も及ばないのだから。


 諸兄はそう考えているし、総領息子への期待があるので家族に対しての不満はない。


 ――それに太上(おおき)天皇(みかど)はずっとお独りでお過ごしになられた。


 諸兄は元正太上天皇を想うと、少年の頃の気持ちになる。実を言えば、聖武天皇の父の文武天皇は諸兄の1歳上なのだ。その姉の元正太上天皇は諸兄の4歳上。わずか25歳で文武天皇が崩御した時に聖武天皇は8歳の子どもであり、その時代に幼帝の即位の慣習はなかった。文武天皇の母が元明天皇として即位し、やがて心身の衰えを感じた元明天皇は文武天皇の長姉である氷高内親王に譲位した。その女性が今の元正太上天皇である。

 諸兄がまだ五世孫の葛城王と名乗っていた少年から青年になる日々、心密かに氷高内親王に焦がれていた。宮廷勤めで滅多に家に戻らなかった母の三千代が、文武天皇の幼少の頃に周囲が大人ばかりではいけないと、たまに宮中に呼び出されて、遊びや勉学の相手をさせられた。その時に弟の様子を見に来ていた美しい年上の女性に心が躍った。勿論、皇位を継ぐ可能性のある内親王と五世孫では婚姻の可能性はない。その点は弁えていた。

 ただただ、氷高内親王を想うあまり、独り身で長く過してきた。

 元明天皇が即位した時に、氷高内親王は28歳であり、将来の聖武天皇の母親代わりとしての重みは増していた。そして、その8年後には氷高内親王自身が即位し、完全に手の届かない女性だと思い切ることができた。

 出羽国の女性と親しみ、多比能を娶ったのはその後である。

 聖武天皇と皇后が元正太上天皇と諸兄を難波宮に残し、紫香楽宮に行幸した天平16年は、安積親王の死の直後でもあり、薄氷を踏むような心地がしていた。それでも夏の日、元正太上天皇が舟遊びで諸兄の邸宅に遊びに寄ってくださった。濃く茂れる緑の常緑樹の葉のように、その時の情景は諸兄の心に深く焼き付いている。

 諸兄は元正太上天皇に次のように詠んだ。

 堀江には玉敷かましを大君を御船漕がむとかねて知りせば(『万葉集』4056)

 それに対しての返しの御製。

 玉敷かず君が悔いていふ堀江には玉敷き満てて継ぎて通はむ(『万葉集』4057)

 臣下へのねぎらいの決まりの言葉であろうと、心底嬉しかった。



2.左大臣橘諸兄の感懐


 天皇をはじめ百官百姓が寧楽宮に戻っての生活が落ち着きを取り戻しはじめたが、天皇の不調は続いており、天平18年の正月の朝賀の儀は中止になると予告された。ここ数年中止される例が多かったので、今回は心機一転の為に儀式があるのではと期待していて落胆する者、天皇の体調を鑑みて仕方がないと諦める者、それぞれがいた。

 諸兄は左大臣として、正月に華やぎを添えられはしないかと思案した。そして思い付いたのが、元正太上天皇の許に集まっての簡単な儀式を行う、だった。

「まあ、よろしいですわね。折角の新年、尊い方からの言祝ぎをいただいてこそめでたいものですもの」

 多比能は夫に賛成してくれた。政治(まつりごと)の裏表を深読みして考えない素直な性質をしているので、宮仕えに向かないと親から判断されて、身内の諸兄と娶せられたと多比能本人は全く知らない。しかし、諸兄は母やほかの妹たちのようにバリバリと表で働く女性よりはと気にしなかった。実際よい縁組だった。年齢差を気にしない、おしどり夫婦で過している。

「しかし、父上、それでは帝や皇后(おおきさき)皇太子(ひつぎのみこ)がお気を悪くなさいませんでしょうか? それに藤原のいとこたちもおります」

 母が呑気な分、奈良麻呂が気を廻してくれる。

「何も太上(おおき)天皇(みかど)のご在所で朝賀の儀を行おうというのではない。一部の高官、気心の知れた者だけでよい。大人数で押しかけるにはご在所は狭いし、かえって騒ぎになってご迷惑を掛ける。国衙(こくが)や家々で行う正月の挨拶程度と考えればよいのだ」

「そのようなものですか」

「勿論、藤原の御曹司にも声は掛けるぞ。帝のお天気も大事だが、その仮の御母である太上(おおき)天皇(みかど)の御前に集まるのに否やは言うまい。いや、誘われて否と言うような奴らではあるまいよ」

 病勝ちの天皇にもしものことがあって後を継ぐのが皇太子だが、その皇太子が独身の女性でその次の皇嗣をどうするか決められておらず、議論さえできない状態。聖武天皇の母代わりの元正太上天皇の存在は政治的に無視できない。聖武天皇が何も発言できない容態になれば、皇后や皇太子ではなく太上天皇が表に出て百官への指示を詔する可能性もある。隠居した一老女などではない。

「成程、そうですね……」

 奈良麻呂にとって藤原四家の者たちも、皇太子の阿倍内親王も、藤原の血を引く母の縁から全員いとこである。大多数が年長者なので、気が重いようだ。だが若い分その重みを跳ね返していこうという気位の高さも持ち合わせている。父の力となって橘家の存在を強くしなくてはと、意気込んでいるようだ。

 橘氏だけでなく、藤原氏、大伴氏や紀氏などの古来からの氏族、秦氏などの渡来系の氏族、様々な人々が朝廷の百官として任官している。天平17年は様々な思惑を秘めて暮れていった。

 天平18年元旦。薄暗いうちから諸兄は起き出した。外を見ると雪が降り、数寸積もっている。

「新年明けましておめでとう」

「新年明けましておめでとうございます」

 家族で唱和して新年の挨拶を終えた。

「さて、では約した刻限もある。太上天皇の許に参上しよう」

 屋敷を出て、朱雀門まで行く。先に何人かが着いて待っていた。明けましておめでとうございますと各々新年の挨拶を述べながら、予定の人員が揃うのを待った。

「こうも雪が積もるとは思いませんでした」

 と、藤原南家の総領豊成がくるぶしまで沈みそうな積雪に足元を気にしつつ言った。そこへ才気煥発の弟の仲麻呂が口を挟んだ。

「いえいえ、新年に雪が降るのは唐では吉兆です。めでたいと言わなくては」

 誰にとっての吉兆となるのかは知らない。仲麻呂はピンと背筋を伸ばして社交辞令にそつがない。

 大伴家のあるじ家持は年少である所為か、無口なまま周囲を観察しているようだ。

 予定していた人数が揃い、諸兄は元正太上天皇のご在所へ向かった。ざくざくと雪を踏みながら、足跡を付けるのが楽しくなってきた。後ろを行く者は雪が土と混じって歩きにくかろうと悪戯気分が出てきて、強く踏みしめたくなる。

「おお、これは!」

 ご在所に着いてみれば、院の御前庭は雪掃きを始めたばかりのようで、竹ぼうきを持った氏女たちが新雪を前にうろうろとしている。ここに自分たちが乗りこめば、折角の雪景色が踏みつけられて泥交じりとなる。諸兄は一人の氏女から竹ぼうきを手渡すように命じた。

「おとど、如何(いかが)なさいます?」

「我らでここを綺麗に清めて差し上げよう。竹ぼうきを皆に渡しなさい」

 大伴家持がごもっとも、と氏女から竹ぼうきを受け取った。左大臣自ら雪掃きを始めたので、ほかの官吏たちも続いて竹ぼうきや本数の少ない雪へらを手にして雪を掃き、かき集め始めた。慣れない作業なので、氏女たちが後を付いて掃き直したり、雪へらで雪を運び直したりと、清めているのか遊んでいるのか判らないような動きになってきた。

 しかし、諸兄は苦にならない。むしろ楽しかった。かじかむ寒さの中で、重い雪を掃いていると、汗ばむほど体が温かくなってきた。こんなに動き回って、はしゃいだ気分になど子どものようだと可笑しかった。面倒がっていた連中も似たような様子らしい。寄せた雪で山のように整えようと積み上げ直したり、動物の形に作ってみたりと、面白がっていた。

 先触れの氏女がやってきて、元正太上天皇が出てくるのを告げた。

 一斉に皆ひれ伏した。

「構いません、皆直りなさい。服が濡れ、汚れます、さあ近う」

 やさしいお声である。

「新年おめでとう。こうして新年を皆と祝えてうれしく思う。

 今年は良き事に満ちる良い年になるよう願う。皆もそのよう祈り、務めておくれ」

「はい、太上天皇様より新年を祝うお言葉を賜り、臣、まことに有難く存じます。老骨の身でございますが、赤心より務めてまいります」

 諸兄に続き、それぞれが答えていった。

 その間、諸兄は元正太上天皇の竜顔をこっそりと眺めていた。


 ――今年で御年66歳になられたか。しかし、この方はいつまで若々しくお美しい。顔かたちだけでなく、お心映えも、知性も並外れた女性、天女のような方。現人神であらせられる。


 かつて恋した女性は女神に相違ないと諸兄はうっとりとなっている。妻への愛情とは別の、信仰に近いような想いである。

「雪掃き、骨折りであった。冷えたであろう。皆、上がるがよい。酒と肴を持ってくるよう命じておる。

 ささやかであるが宴とし、体を温めてゆくがよい」

 おお、と歓声が上がった。

「しかし、ただ飲むだけはならぬ。この雪を題にして各々歌を詠むこと。詔である」

 歓声と、むむと唸るような声が混じった。

 諸兄は単純にこの場を楽しもうと決め込んだ。政治(まつりごと)よりもお祭り騒ぎが新年には相応しい。詔と、宴を盛り上げようとの提案をしてくる太上天皇の茶目っ気が、嬉しく、若やぐようで心が浮き立つ。


 ――ご在所に参上して良かった。今年は良い年になる。


 太上天皇は諸兄を見て、にっこりと微笑まれた。

 昇天ではなく、昇殿して、諸兄は再び元正太上天皇にお礼を申し上げる。

「さしたる奉仕ではございませんでしたが、このようなご褒美に与れるのであれば、何度でも雪を掃きに参上いたします。

 まことに有難き事」

「左大臣、頼りにしている」

「有難きお言葉」

 すっかり舞い上がっているのであった。

 左大臣と参議、諸王は正殿に、それより下の諸卿大夫は南の細殿に席を設けられ、皆座に着いた。

 盃がめぐり、諸兄がまず一番にと立ち上がった。

 そして、諸兄の詠んだ歌。

 降る雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもあるか(『万葉集』3922)


 ――降る雪のようにそれがしめの白髪頭。そうなるまで我が大君にお仕えできました。我が大君のお陰でございます。


 諸兄が元正太上天皇の徳を称える歌を詠み、次々と歌が詠まれていった。

 諸兄は喜ばれた太上天皇より盃を賜り、心地よい酔いの内に過した。歌を詠みかねている唐生まれの秦朝元に、「歌を詠めぬなら麝香で補え」と軽口を飛ばした。苦吟していた朝元は黙って苦笑し、座は和やかさを失わなかった。

 自分たちが掃き、片付けた雪の山を見やりながらの宴は興がある。皆々、雪景色にちなんでのめでたさや、元正太上天皇の徳の高さを詠んでいき、大いに飲んだ。

 大伴家持が最後に歌を詠んだ。

 大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも(『万葉集』3926)

『万葉集』には、この場での元正太上天皇の返歌の御製は伝えられていない。

 藤原南家の豊成、仲麻呂らも歌を詠んだが、『万葉集』巻第18には記し漏らしたと綴られている。同じように記録されなかっただけなのか、それとも御製はなかったのか。

 もしかしたら、諸兄一人が聞き、記憶していたのかも知れない。

参考文献

『続日本紀 前篇』   吉川弘文館

『万葉集』 中西進 注  講談社文庫

『万葉びとの宴』 上野誠 講談社現代新書

『万葉集と古代史』 直木孝次郎 吉川弘文館 歴史文化ライブラリー

『元明天皇・元正天皇』 渡部育子 ミネルヴァ書房 ミネルヴァ日本評伝選

『藤原仲麻呂』 木本好信 ミネルヴァ書房 ミネルヴァ日本評伝選

『古代の女性官僚 女官の出世・結婚・引退』 伊集院葉子 吉川弘文館 歴史文化ライブラリー

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[一言] いったいどんなお話しなのか読み始めたときは見当もつきませんでしたが、雪のシーンの締め方はとても印象深かったです。 天平時代は後の平安朝の女性が籠の鳥だったのに比べ、とても個性的で男勝りな方が…
[一言] 雪掃きというか、雪遊びのシーンが楽しそうで、いい雰囲気出しています。子供の頃に戻った感じでほっこりできました。 ただ私がポンコツだからですが、情報がどっと押し寄せ過ぎて、前半部分は頭が追い…
[良い点] 季節折々の風趣を愛し、政のこともどこかのどけき太上天皇の御代。御製の返歌のない歌が、また太上帝と諸兄の形式構わぬ仲の深さを表しているようで、上代の酒席のことながら、佳き酒仇の付き合いをみる…
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