早苗
以降、過激な表現にご注意ください。
本多のおっさんのタクシーを見送ると、私は自分の部屋に戻ろうと外階段を上がっていった。
「心配ねえ。でも、今は心配しても仕方がないのかもしれないわねえ」
201の部屋の前で土野の婆さんが腕を組んで立っていた。
「あ、ども」
心底驚いたものの、表面には出さない努力をしたがどこまで効果があったろうか。
土野の婆さんはそんな私を見て、クツクツと笑った。
「早苗くん、かわいそうなことをしたわね」
細めた目が笑っていない。
婆さん、何を言っているんだ。
「大家さん、それって」
「いえね、まだ小さいのにあんなことに巻き込まれちゃって、ねえ。かわいそうよねえ」
「は、はあ。そうですよね」
大学生の私にだって首吊り死体は衝撃だったし、ましてやそれが3歳児にはかなりのものだったと想像に難くない。
「いずれあなたにも解るわ」
「そういえば、202は空室じゃないんですよね」
「ええ、そうね。今は出かけているようだけど、前川さんっていう娘さんが一人で住んでいるわ。
確か日影さんより一つ上だったかしら」
「そうなんですか。ご挨拶したかったですけど、こんなことがあった日ですからね、出かけられていて正解だったかもしれませんね」
「そうよね。青山さんは残念だったわ……」
「あの、あの時私はすぐ自分の部屋に戻ってからすぐ寝てしまったようなんですけど、青山さんはその後どうでしたでしょうか。
救急車とか警察とか、騒ぎになったんですよね」
リン……リリリン……。
あ。
鈴の音。風鈴?
「こんな暑い夜は、風鈴の音でさえ熱に変わってしまいそうね」
独り言だったのか私の言葉を聞かなかったのか、土野の婆さんは自分の部屋に入っていく。
横目で私の顔を見ながら。
201のドアが閉まった後には、薄暗い通路に私が一人残されていた。
「いったい何だったのかしら……」
自分の部屋に戻ろうとして202の部屋を横切ろうとした時だった。
何かを叩くような音が聞こえた。
リズムに乗って、硬いものを棒か何かで叩くような。
「さっき聞いた、前川さん……かな」
でも、出かけているって聞いたし。
じゃあ今この202の部屋にいるのは誰?
不気味に感じた私は、隣の部屋で何が起きているかを確認する勇気が持てなかった。
……とにかく自分の部屋に戻って、エアコンを効かせて柔らかなベッドにもぐりこみたかった。
ドアを開けて戸締りをする。
……部屋の片づけは明日またしよう。
エアコンを動かす。温度は27℃にする。
……今日は寝てしまおう。
顔を洗ってベッドに横になる。
……疲れているんだ。
布団をかぶって目を閉じる。
……そうしよう。
深い呼吸を繰り返す。
……もう。
深く、深く……。
……。
「おねえちゃん」
あ、早苗くん?
真っ暗な室内。
早苗くんの声が聞こえる。
「おねえちゃん、ぼくね、ぼくねがんばったんだよ」
そうなんだ。
「えらいねってほめられたんだ」
そうだね、3歳児にしてはしっかりしているし。
「いたいのもがまんしたんだよ」
そっか、痛いの嫌なのにね。すごいね。
「でもね、どんなにがまんしても、どんなにほめられても、いたいのがとまらないの……。
ずっとくるしいの。まっくらでこわいの……」
え、どうしたの、早苗くん。
大丈夫だよ、お姉さんがいるもの。
ゆっくりと目を開ける。
私のすぐ目の前に早苗くんの顔があった。
眼球の無い、ぽっかり空いた赤黒い穴がじっとわたしを見つめている。
「くらいよ、いたいよ、おねえちゃん……こわい、こわいよう……」
何も無い眼窩から血なのか涙なのか、ぬるっとした液体が私の顔に垂れて落ちる。
「ひっ……!」
「おねえちゃん、おねえちゃん……!」
掛け布団を早苗くんと一緒にはねのけベッドから転げるようにして落ちる。
弾き飛ばされた早苗くんがベッドの片隅に倒れた。
尻餅をつきながら私はとにかくベッドから、血の涙を流す早苗くんから遠ざかるようにもがいた。
ベッドの上からはいずり出ようとする早苗くんは、私に向かって血でべっとりとした手を差し出してくる。
その手が私の頬をかすめると、私の顔にも鉄の匂いの液体が付着した。
早苗くんの手を払い右へ、ベランダの方へ逃げる。
音を察知してかそれとも別の感覚器官があるのか、頭を巡らせて私の方に這って行こうとする。
立てないのには訳があった。
早苗くんは上半身だけなのだ。
ぐちゅぐちゅに潰れた腹部からは、何かはわからないぶよぶよとしたものが飛び出し、はみ出し、床に血の筋を作っていった。
寒い。エアコンは27℃にしたはず。
なのにこの冷蔵庫の中みたいな寒さはなんだ……。
ベランダへ続く窓枠に手が触れた。
鍵は……外した。
はずだった。
「あ、開かないっ! 鍵はかかっていないのに!」
押せども退けどもびくともしない。
玄関は反対側だ。部屋とリビングを横切らなくてはならない。
目の前にいる早苗くんを振り払って、だ。
「おねえちゃん……」
早苗くんが這い寄ってくる。
じわじわと、ゆっくりと。
だが確実に。
寒い、寒い、寒い。
私は自分で自分を抱きしめた。
その上から、早苗くんが。
「あ。あたたかい……」
どこかで鈴の音が聞こえた。
「そうか、やっぱりね。そうだったんだね、おねえちゃん……」