子供
チリリン……。
本多のおっさんを見送って玄関のドアを閉めようとしたところで、聞き覚えのある鈴の音が耳に届いた。
「これ、確か……」
もう一度玄関のドアを開けて外を見る。
裏野ハイツの正面には申し訳程度に街灯があるものの、明るいとは言えない程度の物だった。
チリリン。
音のする方向へと視線を向けると、きらりとした小動物の目に出会った。
真夜中に猫の目がきらりと光る、あの感じ。
「早苗くん?」
私の部屋が203で、103に住む御嶽一家の長男の早苗くんがこちらを見ていた。
下の階の玄関ドアが開く音と、部屋の中から漏れる光。
その中に消えていく早苗くん。
「3歳なのにまだ起きているなんて。でも、お隣さんが亡くなったんだもんね、寝られないのかなあ」
時計はもう22時過ぎだ。
ん? 亡くなった?
そうなのか?
だとしたら、さっき私の部屋に入ってきた青山はいったい。あの姿はなんだったんだ。
べちゃり。
「ひっ!」
気がつかなかった。
気がつかなかったが、玄関の床が濡れている。
これは汗なのか何かこぼした跡なのか、かなりの量の水があちこちに溜まっていた。
本多のおっさんも気がつかなかったのか、そんなそぶりすら見せなかった。
「まったく、嫌だなあ」
少しべたつく水を雑巾で拭き取っていく。
開けていた玄関のドアの向こうから声が聞こえる。
「……早く、ほら……」
「……ってよ、ねぇ……」
ひそひそと囁くような声だったから、ドアを閉めていたら聞こえなかったかもしれない。
外に出て下の階をうかがう。
103から人影が現れた。
「どうされたんですか?」
抑えた声で2階の通路から御嶽さんたちへ話しかける。
「あっ、ああ、いや、ちょっと早苗の具合が悪くなってね、病院へ連れて行こうと思ったんですよ」
え? 普通に歩いていたのに。
さっき部屋に入っていったばかりの早苗くんが、御嶽の旦那さんの背中におぶさる形でぐったりとしていた。
慌てて私は外階段で下に降りる。
足元が暗くて階段を踏み外しそうになるが、手すりを頼りに速足で降りていく。
「大丈夫なんですか? さっきは普通にしていたのに」
早苗くんの顔を覗いてみる。
力のない虚ろな男の子の視線が私と重なる。
「あ……、おねえ……」
「午後辺りから元気がなくてぐったりしていたんです」
御嶽の奥さんが心配そうに早苗くんの背中をさすりながら教えてくれた。
すると落ち着いたのか、早苗くんがそのまま旦那さんの背中に突っ伏して目を閉じる。
「そうなんですか。でもさっき、ほんとついさっき玄関にいる早苗くんを見たんですけど」
そう言うと、旦那さんと奥さんがぎょっとした眼をしてお互いを見つめる。
「昼間の件からずっと、家で寝ていましたから。気のせいじゃないですか」
旦那さんが困ったような顔で笑みを浮かべる。
じゃあ私がさっき見た早苗くんはいったい……。
「瓜子、本多さんのタクシー会社に連絡するから、ちょっと待ってて」
旦那さんが携帯電話を取り出す。
お辞儀をするような形で電話をかけ始めると、奥さんが早苗くんが落ちないように両手で支える。
「もしもし、はい、はい。裏野ハイツにお願いします。ええ、本多さんの。
私は御嶽です。御嶽良太です。はい3人で。ええ、お願いします」
旦那さんは携帯電話を切ると、早苗くんを背負い直す。
「10分後には来るって」
「そう、よかった……」
「救急車を呼んだ方がよかったんじゃないですか」
急ぎならタクシーより救急車の方が断然いいでしょうに。
「え、ああ。でもそこまで大袈裟にすることのないかと思って……」
「それに今日はもう救急車来ていたし、続けてだと、ねえ」
まあ、そう言うならいいけど。
大丈夫かな、早苗くん。
そうこうしている内に巡回していた本多のおっさんのタクシーが到着する。
「御嶽さん、大丈夫ですか? ささ、乗って乗って」
「じゃあ日影さん、行ってきますね」
「はい、お大事にしてください」
「ええ、ありがとう」
後部座席に3人とも乗り込んだ後にドアが閉まる。
「急ぎますね。じゃあ」
本多のおっさんがそう言うと、タイヤの音を軋ませて急発進していった。
「大丈夫かなあ……」
私の独り言が、遠くなっていくテールランプに向けられた。