洗浄
土野の婆さんがポケットから大切そうに何かを取り出す。
「写真、ですか?」
黙ってうなずく。
「お孫さん……?」
クツクツ……。
「これ、早苗くん? いいえ違うわね。女の子みたいだもの」
「これはあたし。そしてあなた。今は、ね」
え? 私?
「死を認めたくない者にとっては、生前元気で楽しかった時の頃までの記憶を繰り返すの。
死を意識するような出来事は忘れてしまうのよ。
だって、自分は死んでいないと思っているのだもの」
「それを思い出すということは」
「そうね、自分が死ぬまでのことを、そして死んだということを認識したということかしら」
老婆は深く息を吸う。
「走馬燈ってあるでしょう? あれって自分が死んでそれを意識した時に、今まで封印されていた過去の記憶がフラッシュバックするのよ。
忘れようとしていた、目をそらし続けていた、死ぬまでの経緯が」
くしゃくしゃのシワだらけの顔が、さらにくしゃくしゃになる。
「思い出しちゃったのよ、あたしも」
くしゃくしゃな老婆が私を見つめる。
「日影さん、あなたはご両親のいない施設のお子さんだったわね」
「え、ああ。はい。そうです」
「施設には双子の姉弟が預けられていた」
私は無言でうなずく。
「あなたが3歳の時、裕福そうな夫婦が来て、養子に迎えたいとその施設を訪ねてきた」
「ええ」
「そしてその時、引き取られたのはあなたの弟。名前は」
「……早苗」
「そう。早苗くん」
そうだ。どうして私はそれを忘れていたのだろう。
弟だった。たった二人だけの血縁だった弟。
その時私は流行りの風邪で熱を出して寝込んでいた。
偶然外で元気に遊んでいた弟が、その夫婦の目に留まったのだ。
「もしかして、そのご夫婦って」
「御嶽良太、瓜子夫妻よ」
やっぱり。
「チャイルドロンダリングって知っている?」
「な、何ですか。マネーロンダリングなら……あ」
「そう。子供洗浄。一度身元が判らないようにしてまっさらな状態で別の用途に使う。そうした裏の世界で行われている手法の一つよ」
身元がしっかりしている子供がいなくなれば、失踪、誘拐、事故、様々な憶測が飛ぶ。
事件性があれば警察も動く。
だが、親のいない施設の子供を養子として引き取り、それを次々と渡していく。
法的な書類はどうとでもできる。
追及される頃にはその家族そのものが、その土地にも法律上でも存在しなくなっている。
「御嶽はその実行犯、現場の家族役。
そして本多は運搬役で組織内での子供の移動を行っていた。
青山はそこで得た不正な金銭を管理する役をそれぞれ担っていたのよ」
人のよさそうな表の顔。
人に言えない裏の顔。
「子供は……早苗は」
老婆は首を振る。
「残酷な話だけど時間がないから核心を教えるわね。
子供の肉体は利用価値が高いの。
労働力、兵士、ストレスのはけ口。
力の弱い子供なら、大人に反抗できないから」
私はつばを飲み込むが、喉のひりひりは一向に治まらない。
「そして、性玩具、臓器提供。
人によっては嗜好で食卓に上ることも。
人を人として思わなければ、これほど便利で高品質な商品はないわ。
だから裏では人身売買が行われる。
程度の差こそあれ、ね」
早苗は、そんな悪意の犠牲になったのだ。
そしてそれは、私に起こることだったのかもしれない。
「早苗は臓器移植のパーツとして売買されたの。
目を奪われ、内臓をえぐられ、皮膚をはがされた。
その後山に遺体だったものが放置されたけど、野生の獣に食い散らかされて回収することはできなかった」
バーベキューの時、熊の内臓から出てきた子供の歯。
あれはもしかして……。
私はポケットに入っていた小さな臼歯を取り出す。
「ああ、それ。それが弟、今まで見つけられなかった早苗の生きた証……」
老婆は涙ながら私の手のひらに乗った臼歯を見つめると、そっと私の手を握らせた。
シワの深く刻まれたその手に包まれて、私の手の中で弟の歯が存在感を示す。
「早苗の死を知ったのはあたしがあなたよりももっと歳を取ってから。
事実を突き止めて、それぞれに復讐を遂げていったわ」
青山は首にロープをかけて背負うようにして首を絞めた。
真後ろからロープを締めると、死体に付くロープの後が真横になる。これだと吊った形と合わなくなるのだ。
そして自殺に見せかけるように天井から吊り、筆跡の残らない遺書を置く。
本多は乗っているタクシーのブレーキオイルにほんの少し空気を入れておいた。
普段では影響はないが、高低差やカーブの続く道を急ぐときブレーキに負荷がかかる。
ブレーキオイルがある一定の温度に達すると、混入した空気が膨張してベーパーロック現象が起きる。
いくらブレーキペダルを踏んでも、空気が油圧の吸収材になってブレーキが効かなくなるのだ。
峠の下りでブレーキが効かなくなった本多のタクシーはガードレールを突き破って谷へ落下、炎上した。
エアバックが開くと同時にシートベルトが外れなくなる細工を施しておいたため、生きたまま焼かれるのだ。
御嶽を名乗る男女は、後ろ手に縛って拘束したところで互いの目の前でまずは女の頸動脈を切り裂く。
天井まで濡らす出血に顔をそむける男の身体を包丁で滅多刺しにする。
血に染まる室内で女の首を切り落とし、男の背中から心臓をえぐる一刺しを入れて復讐は終わった。
「これであたしの洗浄は終わったと思っていたの」