本多
「……ゃん、飛鳥ちゃん。大丈夫かい、飛鳥ちゃん」
本多のおっさんの声がする。
街灯の明かりだけではよく判らないが、本多のおっさんが私を膝枕してくれていた。
「ここは……外? 本多さん、ですよね」
「そうだよ、おじさんが帰ってきたら家の前で飛鳥ちゃんが倒れてるんだもん、びっくりしちゃったよ。
夏だって、こんなところで寝ていたら風邪ひいちゃうよ。
それに、若くて元気な女の子なんだもん。変な虫でも付いたら大変!」
「そ、それどころじゃなくて、御嶽、御嶽さんは!」
逆光になってよく見えないが、本多のおっさんはあの愛嬌のある笑顔を少し困ったような形に変えた。
「早苗くんを預けて行ってね、それから戻ってきたから部屋にいるんじゃないかなあ。
ほら、部屋の明かりもついているし」
それはさっき私がつけっぱなしにしてしまった部屋の明かりだったんじゃないか?
「御嶽さんが、大変なんです! すぐに救急車と警察を……」
「僕が、どうかしました?」
我が耳を疑う。
この声は……。
「御嶽さん、大丈夫なんですか! さっき、私……!」
きっと私は幽霊を見た時のような顔をしていたことだろう。
「ええ、大丈夫ですよ」
「よかった……。よかったです」
「きっと怖い夢でも見たのでしょう。今日はお疲れのご様子でしたし」
「いえ、そんな……」
普通に、御嶽の旦那さんと会話を交わす。
「あれ? 御嶽さん、その背中のはなんなんです? ちょっとおじさんからは角度的に見えなくて……」
本多のおっさんが私を膝の上に乗せながら御嶽の旦那さんを見る。
あ、私が膝枕をしてもらっちゃってるからよね。
はい、もうすぐどきますから。
「あ、これですか? なんだろう、僕も判らない……」
御嶽の旦那さんが身体をねじる。
背中が私の、そして本多のおっさんの方向に向く。
そこには柄と少しの刃を残して突き立てられた包丁が見えた。
包丁のところを皮切りに赤い点がどんどん吹き出し、シャツのあちらこちらで花を咲かせていく。
「あ、あれ? なんだろうこれ……」
言葉を発している御嶽の旦那さんの口から、言葉以外のものが溢れてくる。
「ごふっ、ごぼっ……」
口から顎へ、そして顎から胸へ。
吐き出されたおびただしい血が伝っていく。
「道理で、おかしいと思いましたよ」
旦那さんの良太のさらに後ろから聞こえてきたのは、奥さんの瓜子さんだ。
「変なものが刺さっているなあ、って」
「なんだ、それなら早く言ってくれればよかったのに」
「だって、暗くてよく判らなかったのですもの。それに……」
「なんだい」
「私の首、いつもの場所になくて」
奥さんは自分の首を自分で抱えていた。
切断された部分からは、間欠泉のように血が周期的な動きで噴き出していた。
「あ、ああ。そうか、そういうことか……」
本多のおっさんの顔がゆがむ。
逆光ではよく判らなかったが、本多のおっさんは顔の半分が焼けただれていた。
焼けている右側の目は溶けてしまったようで、傷口はどこがどのようになっているのかまったく判らない。
見れば私を支えている手も、半ば炭化しているようにも見えた。
「ほ、本多さん……」
「そうだね、どうやらおじさんも、そんな感じらしいよ」
炭化した腕が甲高い音を立てて折れて落ちた。
「参ったねこりゃ。ねえ、飛鳥ちゃん……」
私は無理矢理身体を起こそうとする。
本多のおっさんは変な座った格好のまま動こうとしない。
「一酸化炭素ででも吸ったらよかったんだろうけど、そうもいかなかったみたいでね。
意識が残っているまま焼けて、燃えて、炭になっていく。
痛くて、苦しかったなあ」
火の粉を吐き出しながら、本多のおっさんの焼け跡がみるみる広がっていく。
「仕方がないのかもしれないな。報いだよ」
御嶽の旦那さんも、諦めというか悟ったような口ぶりで血の泡を噴きながら言葉を吐き出す。
「どうしてよ! 納得できないわ!」
食って掛かる御嶽の奥さんは、ギリシャ神話のペルセウスに切り落とされたメデューサの首のような形相で私をにらむ。
「納得はできないだろうけど、今の状況を理解はしているのだよね、瓜子?」
旦那さんが奥さんを諭すように語りかける。
その顔はみるみる生気が抜けていき、それと反するように身体のあちらこちらから赤い斑点が広がっていく。
「だから子供に手を出すのはやめようって言ったのよ!」
「高値だからっておまえも喜んでいたじゃあないか」
「でもまさか、私がこんな……」
「だが、認識はしたのだろう? 理解もした」
「そう……。だから悔しいのよ。悔しくて悔しくてたまらないわっ!」
メデューサににらまれて石になった者のように、私は動くことも声を出すこともできなかった。
「良太っ!」
「奥さん、もう諦めなさいな。旦那さんももう納得した様子だったしね」
「本多っ、おまえはどうなのよ! それで納得しているというの!? そこまで苦しい思いをしても!
私なんて生きたまま、意識のあるまま切り裂かれた首から飛び散る血を自分の目で見たのよ!
天井まで吹き出す自分の血を!」
ああ。部屋の至る所に飛び散っていたものは、だからだったのだろうか。
「そうですよ奥さん。だからもう無駄だってことは、解っているのでしょう」
本多のおっさんのかすれた声に、御嶽の奥さんは言葉を詰まらせる。
「そうね、もう戻れないことは解っているわ。
でも、こうなったことは納得できないのよ」
「そうかもしれない。ただ、思い返してみれば当然だったのかもしれませんよ」
はあ、とため息が聞こえたような気がした。
「いいこと、納得はしていませ……」
そこで言葉が途切れ、瓜子は消えていた。
「さて、と。おじさんもそろそろ……」
本多のおっさんは無理矢理立ち上がると、右足やら右肩やらが砕けて散っていった。
「飛鳥ちゃんを、ひんむいてやりたかったよ」
残った左目で不器用なウインクをすると、私がまばたきをした次の瞬間、そこには誰もいない風景が広がっていた。