初めまして
夏のホラー2016用です。
裏野ハイツと大書されている看板が、通りに面した壁にネジで止められている。
看板は建物と同じように年季が入っている様子で、塗装もところどころ剥がれ落ち錆が浮き出していた。
やわらかな日差しの中、小高い丘の上にあるこの集合住宅の周りの木々がそよ風に揺れる。
「ここが私の新しいスタート地点なのね」
引っ越しの荷物はあらかた部屋に入れた。
業者のトラックはさっき出て行った。
今日は挨拶回りをしなくちゃね。
101のドアが開き、小太りのおじさんが出てくる。
ジャージのズボンに白のTシャツ。首にはタオルといったいでたち。
「こんにちは。今度203に越してきました、日影と申します」
喫茶店のバイトで鍛えた愛想笑いで挨拶をする。
「ああ、聞いていますよ。日影飛鳥さんだね。思ったより若くて元気そうな方で、おじさんうれしいなあ」
「どうぞよろしくおねがいします。
でも、どうして名前を……」
同じ建物に住むとはいえ、個人情報の漏えいじゃないの。
「まあ見てもらえば判るけど、裏野ハイツって6部屋しかないけど、それでも住んでるのはうちを入れて4件だけだからねえ。
ごめんねえ、仲良くなれたらいいなって大家さんに聞いちゃったんだよね。
そうしたら若い女の子っていうでしょ、おじさんちょっとドキドキしちゃってさあ。
飛鳥ちゃんっていうんでしょ。いつ来るか、今日か明日か、なんてね」
走ってもいないのに汗をタオルでぬぐうおじさんは、愛嬌のある笑顔でウインクをしてきた。
なにこいつマジキモい。
私の名前の飛鳥と掛けてるつもりだろうけど、ウザい。
「私ね、101の本多です。今日は会社休みだから、ジョギングしようと思ってね。
ほらお腹なんかこんなんだから」
そう言うと、101の本多のおっさんはTシャツの上から自分の腹の脂肪をつまんでゆする。
それを見ている私は別にぽっちゃりしているわけじゃないけど、本多のおっさんの肥えた腹を見ると私のお腹や二の腕とかも気になってくるからやめてほしい。
「大丈夫だよ、飛鳥ちゃんは健康的な身体つきしているからさ。おじさんみたいにダイエットなんて必要ないでしょ」
「そんなことないですよー。女の子は常にカロリーとの戦いなんです」
いちいち言い方がおっさんくさいし、人のよさそうな笑顔の奥で私の身体を舐めまわすような視線がいやらしい。
なによその健康的な身体つきって。表現そのものがエロいっての。
「他の人たちのことも紹介したいけど、ちょっとその前にひとっ走り行ってくるからね。休日の日課だから」
「あ、お気になさらず、また改めてお伺いしますので」
「悪いねえ。じゃおじさん行ってきまーす」
「は、はい、いってらっしゃい」
「うっひょー、いってらっしゃいだって、いいなあ、いいねえ」
無邪気な笑顔で手を振って本多は走り去っていった。
「ま、悪い人じゃなさそうだけどね」
一見人畜無害そうな感じの本多のおっさんを見送り、自分の部屋へ行こうと振り向いた時。
「そうねえ、とってもいい人なのよ本多さん」
「うわっ」
一瞬のけぞる私。
なんだこのシワくちゃなちっちゃい婆さんは。
私よりも頭一つ低いお婆さんが、私の背後すれすれのところに立っていた。
「あら驚かせちゃったかしら。あたしは201の土野。ここの大家をやってます」
この婆さんか、情報漏えいの元凶は。
「どうも、お世話になります日影です。
今のが本多さんですね」
「ええ。本多さんはお子さんはいないけど、仲のいいご夫婦なのよ。
そう言えば最近奥さんは見かけないわねえ。どうしたのかしら」
「身なりもきちんとしていたようですし、朝からジョギングなんて健康的ですよね」
ちょっと癪だから健康的って言ってやった。
「そうねえ、でも見たでしょあのお腹。おじさんなのに赤ちゃんができて250カ月だー、なんて言うのよ。いやあねえ」
土野の婆さんは手を口に添えてクツクツと笑う。
期間内に完結までできたら登録しますが、期間外になりましても完結までは持っていきますのでよろしくお願いします。