第5話
「それでは早速館内の案内を始めますね」
今日は授業の一環として、大学の図書館を訪れていた。
教室を一回り大きくしただけのような高校の図書室とは違い、大学の図書館は地上3階、地下1階建ての広い造りで、エントランスの天井には微妙な角度を付けた窓ガラスがはめ込まれ、差し込む太陽光が心地良い雰囲気をかもし出していた。
「すげーな!」
「うちの学校金持ちー!」
かなり凝った造りの図書館に、高校生たちは感歎の声を上げていた。
「おい、お前たちーッ!ちゃんと司書の先生の言うことを聞きなさい!」
静かな図書館で騒ぐ高校生達を前に注意を促す先生の声は、普段よりも若干トーンを落とし気味だった。
「あはは、確かに立派な建物ですよね…皆さんがイメージしている図書館はもっと陰気なものだと思いますが、これくらい明るい雰囲気だと、何となく本を読んでみたくなりませんか?それに、図書館は見た目の立派さだけではなく、強度や耐震性も必要なんですよ
そうでないと、これだけ沢山の本を建物自体が支えきれないですよね?立派な造りになっているのは、いざ地震が来という時の為なんですよ」
エントランス部分で勝手気ままにお喋りをする高校生達を相手に、強く叱ることも無く爽やかに話を続けているのは合田さんだった。
決して大きな声を出しているわけでもないのに、よく通る澄んだその声に、先程まで騒いでいた高校生達の興味が自然と集まり始め、気が付けば合田さんを中心とした輪ができていた。
「皆さんの今日の課題は『環境』『自然』『汚染』『貧困』をキーワードに、関連している資料を探す、ということでしたよね」
しんと静まり返ったエントランスに、合田さんの声が心地よく響いている。
「こ の図書館には検索端末がありますから、まずその使い方を説明しましょうね。簡単な操作で本が探せますから心配いりませんよ。ただ端末の台数に限りがありま すから、10人位のグループに分かれましょうね。それぞれのグループには担当職員が付いて説明しますので、みなさん適当に分かれてみてください」
今やネットで何でも調べられてしまうこのご時世に、わざわざ図書館で、しかも本で調べ物をしなければいけないんだろう?
多分ここにいる生徒の大多数がそんな事を思っているはず…面倒臭そうな顔をしたクラスメイトの中で僕一人だけなぜかウキウキした気分でいた。
「皐月ちゃーん、なんだか浮かれてるねぇ?」
馴れ馴れしく回された涼太の腕の感触に、うきうきしていた僕の僕の気分があっという間も萎えていく。
「別に浮かれてなんかないよ…それよりも…暑苦しいんだけど…」
肩に回された腕から逃れると、そのまま涼太を睨み付けた。
「おー、こわッ!これ位いいじゃん、減るもんじゃないし…ていうかさ、これくらいでギャーギャー言うなんてお前は女子か!ってカンジ?」
ああウザイ、ほんとウザイ、マジでウザイ…。
相変わらずの軽口と、馴れ馴れしい態度で絡んでくる涼太…お願いだから今この瞬間、ココから、僕の前から消えて欲しい。
見た目は悪くないし、オシャレだし、流行りモノにも敏感だから、女の子との話題には困らないと思う。
だけど、嫌悪感を露にした僕の表情や態度が読み取れない涼太…。
そんな性格だから、付き合った途端振られるんだよね、きっと…。
「オレと一緒にやろうぜ、皐月ちゃん!」
しつこく付きまとう涼太からから逃れるように歩き出した僕の目の前に合田さんが立っていた。
「グループ分けしたいんだけどな…誰と一緒に組むの?」
困ったように立ち尽くす僕に、合田さんがニコリと微笑んだ。
合田さんからはいつもと同じやわらかい花のような香りがした。
「えっと…」
合田さんの言葉に周りを見渡せば、既にいくつかのグループが出来ていた。
涼太から離れるには絶好のチャンスとばかり、視界に入った朝見の元へと駆け寄っていった。
「はい、このグループはちょうど10人になりましたね…じゃあキミはあちらのグループに入ってくれるかな?」
合田さんは涼太を違うグループへと誘導してくれた。
…助かった。
偶然とはいえ、僕が入ったことでグループの頭数が揃った事に感謝した。
僕達3人は学校で過ごす時間の大半を共にしているんだけど、涼太に関してはたまに面倒だなって思う時があるんだ。
今日みたいなのがそのいい例だ…。
涼太みたいに余計な事は言わないし、ウザイ事もしてこない…いつでも僕を暖かく迎え入れてくれる朝見とだったらずっと一緒にいられるんだけどな…。
朝見の横にするりと入り込むと、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「どうしたんだ、涼太のやつ?今日はやけに絡んでくるよな…おまえ露骨に嫌な顔してんのに、何で気が付かないだろうな?涼太の鈍感さってある意味尊敬に値するよな…俺には無いからな、あの鈍感さとか無神経さとかさ…」
「そうかもね」
朝見の言葉に、相違の意味を込めた笑い声が漏れた。
「ほら行こうぜ、俺達の引率ってあの人だってさ…」
朝見に背中を押され進んだ先には、数人の女子生徒と談笑する合田さんの姿があった。
そんな合田さんの姿を目にした僕の心にちくりとした痛みが走った…。
「皐月、あの人と知り合いなのか?」
合田さんとの姿を呆然と見つめていた僕の様子を伺うように、朝見が僕の顔を覗き込んできた。
「えーと…」
僕は合田さんに初めて会った経緯をかいつまんで説明した。
「ふーん…じゃあ、あの合田って人は、皐月の恩人てことになるな…だったら挨拶くらいしとかないとな」
「挨拶って…親じゃあるまいし…」
「まあ、気にするな…」
朝見の大きな掌が僕の髪をくしゃりと撫でた。
朝見は時々不可解な発言をするんだ。
この前だって合田さんを見て、『皐月はああいうのが好みなんだ』なんて言ってたし…。
僕の好みが合田さんだって言うのはちょっと違う気がする…だって合田さんは男の人だよ。
理想って言ったほうが良かった気がするんだけど…。
僕や涼太と比べると、随分と大人っぽい雰囲気を醸し出している朝見は常に沈着冷静に物事を見極めるタイプ。
それなのに、時々こうやって訳の分からない発言をされると、どうしていいのか分からなくなってしまうんだ。
それとも僕の思考回路が子供なだけなのかな?
合田さんの案内に従って僕達は図書館の中へと入っていった…。
「検索画面を開きましたら、≪キーワード≫という項目にカーソルを合わせてください」
ずらりと並んだ書籍検索用PCの前に陣取った僕達に合田さんが操作方法を説明している。
「そこに今日のキーワード…まず≪環境≫と入力してみてください」
一人ひとりの進捗具合を確認しながら説明を続けていく合田さん…僕はそんな合田さんの姿をずっと目で追っていた。
「おい皐月、早いところ片付けちまおうぜ」
「う、うん…」
説明なんて上の空で聞いていたから、朝見に声を掛けられた瞬間嫌な汗が出た。
僕の自宅にもパソコンくらいあるけど、それに触れることなんてめったに無いんだ。
文字はローマ字読みで打つっていうのは知ってるけど、キーがどこにあるのか1文字ずつ探しながら打たなければいけない。
≪環境≫という漢字2文字を画面に表示させるだけでも相当な時間を要するんだ…僕はキーボードを前に僕は固まっていた。
『う、どうしよ…』
この授業は付属大学の図書館に出向いた高校生に、担当の先生が用意したキーワードを元に関連する資料を探して書架まで取りに行き、レポート用紙に本のタイトルや著者・出版社を書いて提出するという簡単なもの。
今時の高校生に『少しでも本と触れ合わせる』ため、というのが趣旨なのだという。
こんなことで1時間潰れるならラッキー!くらいに考えていた僕は、目の前の強敵と無言の対峙をしていた。
「山郷くん、手が止まってるみたいだけど…」
画面を睨み付けたまま固まっている僕の耳元で合田さんの声がした。
「え…」
慌てて振り向く姿がおかしかったのかもしれない、僕を見て合田さんが笑ってる。
「全然説明聞いてなかったでしょ?心ここに在らずって顔してたよ」
そう言いながら伸びてきた合田さんの右手が、マウスを握ったままの僕の手の上に重ねられた。
どくん!
心臓が凄い勢いで動き出し、掌がじっとりと汗ばんでいく。
合田さんは重ねた手の上からマウスを動かし、画面をクリックしていく。
後ろから覆いかぶさるような姿勢でいる合田さんの身体からはいつものやさしい香りが漂ってきて、その香りを吸い込むたびに脳の奥がくらくらとして、眩暈を起こしそうな錯覚を起こす。
重ねられた右手は麻痺したように感覚が無いのに、背中や肩は異様なほど敏感で、そこに合田さんのスーツの生地が軽く触れるだけで、ぞくぞくとした感覚が生まれる。
『うわぁ…』
先日も経験したこの不思議な感覚に、僕の意識の全てが向けられてしまう。
「ほらこれ、この本を探してきて…って…ね、聞いてる?」
耳元近くで聞く合田さんの声に、自分の顔がどんどん赤くなっていくのが分かった。
「聞いて…ます…」
ダメだ…この姿勢でいるのが何だか辛い…お願いだから、ちょとだけでいいから離れてくれないかなぁ…このままだとどきどきしすぎて心臓が飛び出しちゃいそうだよ。
顔を上げるのが恥ずかしくて、手元に置かれたプリントを見る振りをして俯いてしまった。
「がんばって…」
「はい…」
励ましの言葉を掛けてくれた合田さんの顔をまともに見ることが出来なくて、僕は俯いたまま返事をした。
そんな僕の肩をポン!と軽く叩いて合田さんは去っていった。
「ふう~ッ」
合田さんが近くにいないと分かった途端、安堵の溜息を吐きながら顔を上げた。
先程迄全く見る事のできなかったPC画面には、合田さんが調べてくれた本のタイトルが並んでいた。
今日の僕は何だか変だ…ううん、違うって…使い慣れないパソコンに緊張しただけだよ。
だけどこの前も同じ様なことあった…。
一体僕はどうしちゃったんだろう?
「皐月…?」
じっと考え込んでいると、朝見の心配そうな声がした。
「どうした?」
肩に手を掛けられ、じっと顔を覗き込まれても、朝見相手なら全然平気なのに…。
「あのさ…僕…どこかおかしいのかも…」
「おかしいって?」
「最近ね…すっごい心臓がどきどきしたり、胸が苦しくなったりするの…これって病気かな?」
僕を見つめる朝見の表情が一瞬曇った気がした。
「ああ病気かもな…しかもどんな名医にも治せない、不治の病だな…」
「な…にそれ…人が真剣に聞いているのに…」
朝見ならちゃんと教えてくれると思ったのに…朝見のふざけた答えにムッとしながら、画面に表示された本のタイトルを写し始めた。
「おい、皐月!」
「なに?今忙しいの!」
顔を向けずに返事をしたら、横から伸びてきた手が僕のメモを奪い取ってしまった。
「なにすんだよ、朝見ッ!ヒトがせっかく書いたっていうのに…」
ムッとしながら睨み付けると、朝見は僕よりもずっと機嫌の悪い顔をしていた。
「二人で同じ事書き取る必要ないだろ、行くぞ」
そう言う朝見の手には、綺麗な筆跡で書かれたメモがあった。
「だったら書きはじめる前に言ってよ…」
少し棘のある言い方をしながら起ち上がると、僕より数センチ高いところから朝見が僕を見下ろしてきた。
「さっきから何度も声掛けてたんだけど、皐月ちゃんは何かに夢中のご様子でさ、俺の声なんて届いていなかったみたいなんだけど」
朝見らしくない話し方が機嫌の悪さを物語っている。
『珍しい…朝見が機嫌悪いなんて…どうしたのかな?』
僕を置いてさっさと歩き出す朝見を慌てて追いかけた。
楽勝のはずだった授業は、苦痛の1時間へと変ってしまった。
クラスメイトの大半は早々に課題を終えると、その辺で適当に遊びまわっていたみたい。
僕はというと、むっつりと黙り込んだままの朝見と一緒にレポートを仕上げている最中ずっと居心地が悪くて、レポートを書き終え、先生に提出した時には正直ホッとした。
『何で急に機嫌悪くなっちゃったんだろ?とりあえず朝見の機嫌が良くなるまで近寄らない方がいいかな…』
バラバラに散りながら高校の校舎へと帰っていくクラスメイトに紛れ、図書館から出て行こうとした僕の腕を後ろから掴む人がいた。
「!?」
誰だろう?なんて思いながら振り向くと、僕の腕を掴みながらニコニコと笑っている合田さんがいた。
「この後昼休みでしょ?このまま一緒にランチでも行かない?」
う…確かに『今度一緒にご飯食べよう』なんて約束したけど、なんとなく今日はそんな気分じゃないんだよね…。
せっかくのお誘いだけど、また今度にしてもらおう。
「あの…」
「皐月、何やってんの?」
断ろうとする僕の言葉を遮る様にして不機嫌な朝見の声がした。
「な、何って…」
僕は合田さんに腕を掴まれたまま固まっていて、合田さんは僕の腕を離さなくて、で…朝見は今世紀最大級に機嫌が悪い。
『ああ、どうしよう…』
僕は自分の行き先を全て塞がれた気分になってしまった…。