第42話
愚痴や涙を零すたび、黙って受け止めてくれるこの胸に、僕はどれだけ救われただろう?
それなのに僕は、与えてくれるやさしさにばかり甘え、朝見の押し殺した気持ちは見ない振りをしてきた。
…甘えてばかりでゴメンね。
辛い思いばかりさせちゃったね。
「朝見…」
逞しい胸に顔を埋めたら、どきどきと響く朝見の鼓動に包まれて、きゅうと音がするくらい胸が締め付けられた。
「おまえが一番嫌いな事…してるよな、ゴメン」
「え?」
「好きだ、好きだって俺の気持ちばかり押し付けて…」
「あ…」
僕は、一方的に寄せられる好意や、無理矢理押し付けられる気持ちが苦手だった。
名前も顔も知らない相手に、『好きです』と言われても、嬉しいどころか、気味が悪いとさえ思っていた。
その頃の僕は、人を好きになるという気持ちを知らず、≪恋≫に恋してるような子供だった。
そんな僕の幼稚な考えを知ってる朝見は、抑え切れなくなった自分の気持ちを伝えてくる度、『ゴメン』という言葉を付け加えるんだ。
「そんな事ない…僕のほうこそ、ゴメン」
「皐月?」
「朝見の気持ちを知ってるくせに、甘えるような事ばかり言って…」
「今更蒸し返さなくても…その話は前に方を付けただろ?おまえが誰を想っていようと、俺はおまえが好きだし、おまえが悩んでいたら、相談に乗ってやりたくなるのが俺の性格なんだから仕方ないだろ」
朝見の気持ちが、やさしさが、触れ合った肌を通して僕の中に入り込んでくると、身体の内側から甘く痺れるような歓喜が溢れ出す。
…これって、この気持ちって。
自分の中で眠っていた気持ちに気付いた途端、全身がかあっと熱くなり、抱き締められた腕から思わず逃げ出していた。
「皐月…?」
「ご、ゴメン…なんか…僕…」
伝えたい言葉があるのに、伝えなければならない言葉があるのに、早まる鼓動で口が渇き、上手く言葉が出てこなくて、僕達の間にぎくしゃくとした沈黙が流れる。
「…そろそろ、戻るか」
「あ…」
僕の沈黙を返事と受け取ってしまったのかもしれない。
朝見は小さく息を吐くと、僕を置いて歩き出した。
…行かないで。
去っていく後姿を引き止めたいのに、僕の足には根が生えてしまった様に、その場から動く事が出来ず、カラカラに乾いた喉から出た声は、一際大きな波の音に掻き消されてしまった。
「やだよ…」
一人取り残された僕は、力なくその場にへたり込んでしまった…。
「何時までそうしてるつもりだ?」
足音も無く近付いてきた声にはっと顔を上げれば、大きなコンビニ袋2つを両手に下げた朝見が立っていた。
「ったく、買出し係はおまえだろ?買い物してきてやったんだから、荷物くらい持てよな」
いつもと同じ態度、同じ声…朝見は手に下げたコンビニ袋を差し出してきた。
「え、あ…」
僕は慌てて立ち上がると、手についた砂を払い、差し出されたコンビニ袋を受け取った。
「早く戻らないと、アイスが溶ける」
「う、うん…」
自分から動けずにいれば、そっと手を差し伸べてくれるけれど、決して無理強いはしない。
それが朝見のやさしさなんだ。
…ありがとう。
僕が歩き出すのを待ってゆっくり歩みを進める朝見を見詰めながら、心の中で感謝の言葉を述べた…。
ポツリ、ポツリと灯る街灯、遠くに聞こえる若者達の歓声…。
昼間の暑さが嘘のように、路地を吹き抜けて行く風は涼やかで、火照った肌を心地良く癒してくれるけれど、宿を目指し黙々と歩く僕達の間には重苦しい沈黙が流れ、地面を引き摺るサンダルの音だけが虚しく響いていた。
…なんとかしなくちゃ。
あまりにも近過ぎて気付かなかった…。
違う、とっくに気付いていたのかもしれない。
ずっと見ない振りをしてきた気持ちと向き合えば、自然と鼓動が早まって、息をするのが苦しくなり、伝えなければならない気持ちや言葉は、カラカラに乾いた喉に痞えてしまう。
きっと朝見は、何も語らない事が僕の返事…つまり『NO』…だと思ってしまったに違いない。
…どうすればいい?
ぎくしゃくとした沈黙が、二人の間に小さな溝を作り、小さな溝でさらに沈黙が深まる。
出来てしまった小さな溝に何の手も施さなければ、やがて大きな亀裂となって僕達の間を裂いてしまうかもしれない。
そうなってしまえば、きっとどんな手を尽くしても修復不可能だ。
それなのに、ぽっと顔を出した弱気な心が、行く手を遮り、僕の動きを封じるんだ。
…逃げるな。
弱い気持ちのせいにして、楽な方へ逃げようとする気持ちを叱りつければ、少しだけ気持ちが強くなる。
朝見から逃げるようにずっと俯いていた僕は、ゆっくりと顔を上げた…。
「朝見…」
歩く時はいつだって僕と肩を並べてくれた朝見が、今は少しだけ前を歩いている。
そんな些細な距離感ですら、今の僕にはとても苦しくて、早く側に近付きたいと思ってしまうんだ。
「ん…?」
「あのね…」
おざなりに顔だけ向ける朝見に追い着くと、腕を掴んで無理矢理僕の方に身体を向かせた。
朝見はこの旅に、自分の≪恋≫を賭けていた。
もしも僕と一緒に来ることが出来れば、自分の気持ちを伝える。
もしも旅行が中止になったなら、僕との縁は無かったものだと考え、普通の友人に戻るんだ…と。
大袈裟かもしれないけどさっきの告白は、朝見にとって一世一代のもので、この機を逃せば僕達は普通の友達…もしくはそれ以下の関係になる覚悟を持って臨んだんだ。
それなのに僕は、そんな朝見に対し何も答える事が出来ず、ぐっと押し黙ったままだった。
精一杯の覚悟を決めて告げた言葉に対し、そんな態度をとられてしまえば、良い返事がもらえるなんて思うはずが無い。
それなのに朝見は、そんな状態にあっても、いつもと同じ声と態度で僕を甘やかすんだ。
…ゴメン。
こんな大事な時でさえ、朝見に甘え、朝見を苦しめてしまう自分がとても憎らしかった。
「さっきの話だけど…」
誰よりも僕を大切にしてくれる朝見だからこそ、ちゃんと向き合いたいし、きちんとした答えを出したかった。
それが今の僕に出来る精一杯だから…。
「話?」
「僕まだ、ちゃんと答えてないよ…」
ぎゅっと掴んだ朝見の腕が、僕の言葉にびくんと震えた。
「僕は…朝見が…」
この言葉を告げれば、僕達の関係は大きく変わってしまうかもしれない。
それでも告げなければならない…僕と朝見のために…。
「朝見のことが…好きなんだと思う」
「皐月…」
朝見に嘘や偽りは通じない。
だから今感じてる、そのままの気持ちを伝えるんだ…。
「でも…でもね…。こんな風に、簡単に心変わりしてしまう自分が…嫌なんだ…」
「そうか…」
それだけ言うと、朝見は小さく笑って、腕を掴む僕の手をそっと剥がした…。




