第4話
一瞬の出来事に、何が起きたのか分からなかった…。
気が付くと僕は、合田さんの胸に顔を埋めていた。
…うわ。
バスの揺れで体勢を崩した人達が上げる苦悶の声に紛れ聞こえてくるのは、トクントクンと規則正しく脈を打つ、合田さんの鼓動…。
「大丈夫?」
合田さんの胸に顔を埋めていると、胸板を通して聞こえる心地良い声の響きと、ふわり、やさしく広がる香りに包まれて、ぞわり、全身の肌が粟立った。
…なにこれ!?
くすぐったいような、むず痒いような…なんとも言えない痺れる様な感覚に、項の毛がぶわりと逆立つけれど、それは不快な感覚ではなかった。
びりりと全身を廻った感覚は、静電気にも似ているけれど、どこか甘い響きを帯びていて、味わったことの不思議な感覚に僕の心は戸惑っていた。
「すごい勢いで突っ込んできたね…顔面から」
狭い車内で体勢を崩し、身動きが取れずにいると、クスクス笑う合田さんが助け起こしてくれた。
「あ…すみません」
恥ずかしい、だけど嬉しい…そんなくすぐったい気持ちで合田さんを見上げたら、僕を見詰める瞳に胸がどきんと音を立てた。
「若いのに足腰弱いねぇ、ちゃんとご飯食べてる?この位の揺れに耐えられなかったら、社会に出た時、通勤電車に耐えられないよ?」
大人の余裕でからかう合田さんから見れば、高校生の僕なんてすごく子供に見えると思うし、確かに僕は、他の同級生と比べても、幼い部分が多いと思う。
でもね、そうは言っても僕は17歳で、子供じゃない、子供じゃないけど大人でもない。
そんな微妙な年齢だからこそ、子供扱いされたくないって気持ちが強いんだけど…。
「むッ、今のは不意打ちだったし…立ち位置悪かっただけだし…。合田さんだってこっち側に立ってたら、僕と同じ様にコケてたと思いますよ」
僕を見下ろす合田さんは、背こそ高いけど、何だかヒョロっとしてるし、色白だし、なんかちょっと病弱そうかも…なんて思いながら、子供扱いしてきた合田さんにちょっとだけ反撃してみた。
「あれ、なんかむっとしてない?気に障ること言ったかなあ…」
僕の反撃を、余裕の笑顔で受け流してしまう合田さんに、「むっとなんかしてません」なんて言いつつ、むっとしてしまう時点で僕の負け。
「ふふ…僕の事、『貧弱そう』とか思ってるでしょ?」
合田さんは僕の心を見透かすような、不敵な笑みを浮かべると、僕の手を取り、自分のお腹に宛がった。
「えッ!?」
「ふふ…こう見えて、実は鍛えていたりするんだよね」
滑らかに隆起する筋肉の感触は、10代の僕とは違う、大人の身体のつくりや感触をしていて、何故か胸がドキドキしてしまう。
「うわ、すごい!なんですかコレ…」
「図書館の仕事って結構肉体労働多いんだ。図書館イコール本の虫なんてことないしね」
だから鍛えておかないと…なんて言って、やさしく微笑み掛けられたら、胸の奥がきゅうとなった。
…え、なに?
ばくんと跳ね上がる鼓動と、胸をきゅうと締め付ける痛みに、息をするのが苦しくなる。
けれどそれは決して苦しいものではなくて、むしろ、嬉しい気持ちと楽しい気持ちが一緒にやって来たような、そんな不思議な気持ちを伴っていた。
…こんな感覚知らない
始めて感じた気持ちに、僕は戸惑い不安を覚えていた。
全身を襲う未知の感覚に翻弄されていると、合田さんの肌から発する熱が僕の掌を溶かし、そこからとろとろと肌が溶け合っていく様な気がして、自分の力だけでは離す事が出来なくなってしまった。
「そんなに一生懸命触らなくても…」
合田さんのお腹に掌を宛がったままで固まっていると、ぐっと力を込めた腹筋が、掌の下で滑らかな隆起から、荒々しい山脈へと変化した
「うわッ!」
掌の下で急速に形を変える肌の感触に驚き、慌てて手を引っ込めると、「そんなに触ってると、怪しい人に見えちゃうよ」なんて悪戯っぽく笑われた
「え…!?」
合田さんの言葉に車内を見渡せば、僕達の遣り取りに興味深々な視線が向けられていた。
周囲の人達から向けられる好奇の視線に居た堪れなくなった僕達は、バスが到着するのと同時に慌てて降車した。
「それじゃ、授業頑張って。居眠りしちゃダメだよ」
「居眠りなんてしませんッ」
颯爽と去っていく後姿を、僕はうっとりとしながら見送った…。
「おはよう!」
ばしん!と思い切り背中を叩かれ、合田さんの後姿に見惚れていた僕は現実に引き戻された。
「いたた…」
「一体誰に見惚れてるんだ?ぼけーっとした顔して…」
訳知り顔で立っている朝見の言葉にどきっとした。
「み、見惚れてなんていないよ…ちょっと眠かっただけ…」
もしかしてバスの中でのやり取りを見られていたのかも…そう思うと恥ずかしくて、朝見の顔がまともに見れなくなってしまう。
「なんだ、それならいいけどさ…っていうか急ごうぜ、遅刻する!」
明らかに動揺しまくっている僕に対し、朝見はそれ以上の質問をしてこなかった。
余計な詮索をしない朝見の性格に感謝しながら、僕達は普段どおりの他愛ない会話へと話題を変えていった。
「それがさー、ホテルの前まで行ったら急に『用事思い出した!』なんて言い出してダッシュで逃げ出すんだぜ!ありえねえっつうの!」
中庭で昼飯を食べながら、涼太は昨夜の出来事を自虐的に話していた。
「こっちはやる気満々なんだから、ヤル気がないなら最初からついて来るなっつーの!お陰でオレの気持ちもアソコもすっかり萎えちまったし…つーか、このまま勃たなくなったらどうしてくれるんだって話だよなー」
早口で捲くし立てる涼太の話は、相変わらず女の子のコトや下ネタばっかりで、正直そんな涼太にうんざりしていた。
そりゃあ僕だって思春期だし、色々興味もあるけどさ…真昼間からそんな話するんじゃなくて、もっと実のある話っていうか、普通の会話がしたいんだよな…。
「女とヤル事以外考えられねぇのか?」
はぁとため息を吐くと、まるで僕の気持ちを代弁してくれるかのように朝見が突っ込みを入れてくれた。
「おう、考えられないね!一度しかない青春だぞ、女とヤリまくって何が悪いんだ!それよりおまえらはさ、この有り余る性欲をどうやって処理してんだ?まさか毎晩一人で抜いてんのか?」
右手で小さな輪を作り、股間の前でそれを動かす仕草を目にし、『アホだ、涼太はアホなんだ…』と自分に言い聞かる。
自分の話す下ネタで一人受けている涼太の事は無視する事にしよう決め、僕は母親の作ってくれた愛情弁当を食べることだけに全神経を集中させた。
「なんだよー!答えねえってことは当たりってコトか?まさかとは思うけど…この年で童貞ってわけねぇよな?」
涼太の物言いにはカチンときたけど、そのまさか…だよ。
僕は女とヤルどころか、そもそも女の子と付き合ったことすらないんだから。
せっかく涼太の話をシャットアウトしていたのに、振られた話題のせいでせっかくの弁当が不味くなってきた。
「あのさ…」
暴走する下ネタを止めさせようと口を開いた僕よりも先に、朝見が涼太を制した。
「涼太その辺にしとけよ、メシが不味くなるだろ…それからさっきの質問だけど、俺は女とやったことがないからな」
感情を込めず淡々と喋る朝見の冷たい声は妙に迫力があった。
…ん?今『やったことない』って言わなかった?
ええッ!?朝見がやったことないなんて…まさか…この3人の中で童貞なんて僕くらいだと思ってたよ。
朝見は年の割に妙に落ち着いていて、物事をいつも冷静に見ている。
人当たりもいいし、誰に対しても平等な態度をとるから、黙っていても人が付いてくる様なタイプなんだ。
それに加えて、背が高くてスタイルもいいし、顔はスッキリ系のオトコ前…アイドル系というよりは俳優さんみたいな容姿は男の僕から見てもカッコイイと思うくらいだからきっと、女の子から見たらもっとカッコ良く感じるんだろうな、何て思ってた。
だから、朝見の『やったことない』発言は衝撃的だった。
「朝見ってどんなコがタイプなの?」
こんなイケメンを放っておくなんて…世の女性達の目は節穴なのか?
それとも朝見の理想がめちゃめちゃ高いのかな?
「うーん…あえて言うなら…皐月、おまえかな」
『やったことない』発言に納得できないでいると、朝見が真面目な顔で答えてきた。
「えッ!?…ぶはッ!」
朝見の発言に、飲み込もうとしていたお茶を吹き出してしまった。
「お、おまえって…朝見、何言ってるの!?大丈夫か?僕、オトコだぞ!正真正銘間違いなく男だぞ」
焦る僕の姿に、朝見は満足な笑みを浮かべた。
「冗談だって、俺はさ…お前みたいに素直な反応する子が好みなんだよ…今時そんなコントみたいな反応できるのお前くらいだからな」
「そ、そうか、冗談か…びっくりさせないでよ…」
吹き出してしまったお茶で濡れた口元を手で拭いながら、ほうと胸を撫で下ろしていた。
冗談とはいえ、男に告白された衝撃って結構大きかったから…。
「あー、分かるなー朝見の気持ち!オレも皐月が女だったら付き合ってくれって言うかもしれないなー、皐月ってさ、女だったら絶対モテまくりだろうな、それなのに男になんか生まれちまって、ホント勿体無いことしたなー!」
涼太の手がにゅっと伸びてきて、女の子相手にするみたいに僕の髪をそっと梳いていく。
その感触がぞっとするほど気持ち悪くて、涼太に触れられた場所から全身に向かって虫唾が走った。
「気色悪い真似するな!」
涼太の手を叩き落とすと、
「んだよ…ちょっとくらい触らせろよ」
スゴク残念そうな顔で見つめられてしまった。
『女だったら絶対モテまくり』って言われた僕ってどうなの?
それはもしかして、男としての価値が低いっていう事なのかな?
一応女の子に告白されたことあるから、それは無いよね…。
多少軟弱とはいえ、男としての尊厳を持っているつもりだったのに、二人の発言を聞かされてしまった僕は、男としての自信を失ってしまいそうな気がした。