第32話
学校から戻ると、そのまま部屋へ直行した。
部屋の扉を閉めて、ベッドの上にダイブすると、閉め切ってあった部屋の熱気で、身体中から汗が滲む。
電源を切ったままの携帯を取り出して、ベッドの上に転がすと、こめかみから流れて来た汗と一緒に、涙が流れ落ちた。
「ふ…」
ズキズキ疼く胸の痛みも、息苦しいほどの悲しみも、涙と一緒に流れてしまえばいい…。
枕に顔を埋めて、嗚咽を漏らさないようにしながら、ぽたぽた落ちる涙の音に耳を傾けていた。
「皐月ッ、皐月!」
強く身体を揺さぶられながら、誰かに名前を呼ばれてた。
「大丈夫なの!?」
脇と項にヒヤリとしたものをあてがわれ、その感触に朦朧としていた意識が少しだけハッキリした。
「かあ…さん?」
「ああ、何やってんの…この子は。閉め切った部屋で昼寝なんかしたら、熱中症になるわよ。とりあえず、これ飲みなさい」
差し出されたコップを受け取ろうとしたら、可笑しいくらい指が震えてた。
「やっぱり、病院行ったほうがいいかしら…」
普段はあっけらかんとしている母さんが、心配そうな顔で僕を見詰めてる。
「何で病院?別になんともないよ…」
起き上がろうとした途端、軽い眩暈と吐き気を覚えて、そのままベッドの中に沈み込んだ。
「とりあえず、リビングに行くわよ。エアコンかけてあるから…」
母さんの肩を借りて階段を下り、エアコンの効いたリビングのソファに寝かされた。
「衣服を緩めて、足を高くして、水分補給…ですって」
「ちょ…母さん!」
何かの冊子と睨めっこしながら、おでこと項に熱取りシートを貼られ、きっちり閉めていたベルトを緩められた。
「頭痛くない?吐き気は?」
「ちょっとガンガンいってるけど…さっきよりマシかな?」
部屋で感じた眩暈と吐き気は、冷えたこの部屋に移動したお陰で治まった。
「夏の暑さをなめちゃダメでしょ。家の中だって熱中症になるし、命を落とす人もいるのよ…」
そう言う母さんの目元が、微かに潤んでいるのを見たら、鼻の奥がツンとして、息をするのがちょっとだけ苦しくなった。
「ごめん…」
「分かればいいのよ、今度から気を付けなさいね。まったく、何時まで経っても世話が焼ける子ね」
しんみりしてしまった空気を払拭するように、わざと大きく笑って、僕の髪をくしゃりと撫でる母さんの手がやさしいから、堪えていた涙がちょっとだけ溢れた。
「ありがと…」
両腕で顔を覆って涙を隠したら、その上にバサリとタオルを掛けられた。
「汗拭いときなさいよ」
キッチンに消える足音を聞きながら、渡されたタオルに顔を埋めた…。
母さんが気付いてくれたお陰で、大事は至らなかったものの、僕の身体は酷くだるくて、何もする気が起きなかった。
翌日も、翌々日も、エアコンの効いたリビングでダラダラ過ごしていたら、『そんなに具合悪いなら、病院行きなさい』と母さんに怒られた。
…具合が悪いわけじゃないんだ。
体調が悪かったのは1日だけで、それ以降は僕の気持ちの問題。
ズキズキする頭の痛みが取れたら、チクチクする胸の痛みが戻ってきた。
朦朧としていた思考回路がスッキリしていくほどに、思い出したくない事ばかり考えるようになった。
母さんのお小言を聞き流し、次々と浮かんでくる考えを押し遣って、怠惰な日々を送っていると、胸を蝕む痛みからちょっとだけ逃れられるような気がした。
「皐月、電話!」
リビングのソファに寝転がり、何度読んだか分からない漫画をぼんやり眺めていると、子機で頭を小突かれた。
「へ…誰から?」
「朝見くん」
「何で…家の電話?」
「さあ…?」
僕の手に子機を押し込んだ母さんは、掃除機を引き摺りながら部屋を出て行った。
「もしもし…?」
『皐月?』
「何で、家に電話してんの?」
『おまえの携帯、ずっと繋がんない』
…あ。
忘れようとしていた痛みが、朝見の言葉で戻ってきた…。
携帯の電源をオフにする事で、外界との繋がりを絶ち、自分の世界に引きこもっていた。
頭の中をからっぽにする事で、チクチクする胸の痛みをやり過ごそうとした。
だけど…そんな事したって、ムダだった。
『どうした?』
電話越しに聞こえてくる朝見の声が、怠惰に過ごした時間を撒き戻し、あの日の僕を呼び戻す。
「うん…」
やさしく話し掛けられたら、息が詰まるような苦しさと痛みに襲われて、その場にぺたりと座り込んでしまった。
『何かあったのか?』
「うん…」
『会いに…行って来たのか?』
「うん…」
何を聞かれても≪うん≫としか答えない僕を気遣う様に、朝見は直接的な質問を避け、当たり障りのない会話へ話題を変えていった。
『また電話するよ…って、こっちに掛けたほうがいいか?』
「ううん…後で携帯の電源入れておくよ」
『分かった…』
通話を終えた子機を充電器に戻すと、重い足取りで自分の部屋へ向かった。
風の抜け切らない部屋の中はむわりとした熱気が篭り、足を踏み入れた途端、全身の毛穴からじわりと汗が滲み出た。
枕元に放置されていた携帯に手を伸ばすと、訳も無く指先が震え、掌に収まってしまうほど小さな機器が、やけに重く感じられた。
パタリとフラップを開けると、真っ暗なディスプレイに写る自分の顔が、笑っちゃうくらい情け無けなくて泣きそうになる。
…逃げ回っても意味無いよ。
泣き出しそうな自分自身に言い聞かせると、電源のオンボタンに指をかけ、目を閉じ大きく息を吐いた。
「よし…」
ボタンを長押しすると、携帯の起動を示す音楽が流れ出し、心臓の鼓動がドキドキと早くなった。
溜まっていたメールの受信が始まると、汗で滑る掌から携帯が落ちそうになった。
ブルブルと震えるだけの着信は、迷惑メールやお知らせメール。
サビの部分だけ流れる流行歌は、友達からのメール。
そして、オルゴールの音が奏でるクラッシックは…合田さんからのメール。
滅多に聞く事の出来ないメロディが流れてくると、胸の奥がきゅうと締め付けられた。
「見たほうが…いいのかな?」
いらないメールを削除し、朝見や涼太から来たメールを読み上げて…ぐるぐる、いろんな場所へ寄り道しても、行き着く先は結局同じ。
最後まで残した未開封メールが、早く開けろと訴えてくる。
「逃げるな…」
画面を閉じようとする指先を叱り付けると、覚悟を決めて決定ボタンを押した。
「あ、あれ…!?」
タイミングよく掛かってきた電話に出ると、くすくす笑う朝見の声が聞こえてきた。
『何慌ててんだよ?』
「だって…」
『タイミング悪かったか?』
「そうじゃないけど…そうかも…」
『って、どっちなんだよ』
…せっかく覚悟決めたのに。
なんて思う気持ちの片隅で、ホッとしてる自分がいた。
「何か用?」
『生存確認…』
「なにそれ…」
『なんて…ちゃんと電源入れたか確認したかっただけ』
「大丈夫、ちゃんと繋がったでしょ?…って、あ…マズイ、電池切れる」
電池切れを示す音と共に、朝見との会話が中断された…。
電池切れの携帯に充電器のアダプタを差し込むと、充電中を示す赤いランプが点った。
「どうしよう…」
朝見に掛け直すか、それとも先にメールを見るか…決めた覚悟を挫かれると、次への一歩が踏み出せなくなる。
「もう…朝見のばか」
電源を入れ直した携帯を睨み付けると、リダイアルボタンに指を掛けた…。




