第29話
海を吹き抜けていく風を思わせる爽やかな香りが、埋もれかけた記憶を掘り起こす。
屋上、太陽…思い出しかけた記憶を必死で追いかける。
失恋、涙…ゆるりと伸ばされた指先の感触。
「…あ」
自分の中に生まれた不思議な気持ち。
合田さんに対する気持ちを≪恋≫だと自覚した途端、それが叶わぬものだと思い知らされた。
苦い痛みから逃げ出して、一人泣いている僕の元へ来てくれたのは・・・。
…あれはリアルな夢のはず。
零れる涙を拭ってくれた指先の温度と、あやす様なキスの感触、夏空を思い起こさせる爽やかな香り…。
…夢にしてはあまりにもリアル過ぎる。
失恋の痛みに気を取られ、夢だと思い込んでたあの日のキス。
「ねえ…」
朝見の手の中で転がる青い小瓶。
「何で使うのやめちゃったの?」
「ん…?」
「それ…」
ころころ、小瓶を転がす朝見の手の動きが止まった。
「…飽きたから」
「そっちの方が似合ってるのに…」
…あの日のキスは、本物なの?
ストレートに聞いてしまいたいけど、今の僕にはその勇気が無い。
「そうか?でもなあ…使ってるヤツ多いし」
「でも…朝見のイメージって、そっちなんだけど」
纏う香りを変えても、僕の中に居る朝見はいつだってその香りと同じイメージ。
透明感のある爽やかさと、どっしり構えた大地…自然の力強さと優しさを兼ね備えてる。
ダメな僕には勿体無い位、出来すぎた友人…。
「ふーん…」
掌の上で転がしていた小瓶をテーブルに置くと、朝見はそのまま考え込んでしまった。
「今日はつけてないの?」
「は?」
「コレ…」
手元に残ったスマートなボトルを振って見せると、朝見が小さく首を振った。
「いや、今日は何も…」
…だったら。
「ねえ、ちょっとつけてよ」
フローリングの上を膝でじりじりと進み、朝見の側へ近付いて行く。
「締め切った部屋でつけたら、臭いだけだぞ」
「それでもいい」
青い小瓶にさっと手を伸ばし、朝見の首筋目掛けてシュッと吹きかける。
「うわ、やめろッ」
「ふふ、もう遅い」
身を捩って逃げる朝見の首筋で、小さな水滴がきらりと光り、部屋の中にウォーターフルーツの爽やかな香りが広がった。
「ったく、ガキか…おまえは」
呆れた顔しながら、朝見は僕の手から小瓶を取り上げた。
「ほら…やっぱり」
吹き付けられた液体が、朝見の肌の上で香りを変え、ふわり、馴染みのある香りとなって漂ってきた。
「やっぱりって…何が?」
「あれって…夢じゃなかったんだよね?」
僕の言葉に、掌で首筋を拭っていた朝見の動きが止まる。
「あの日…キスしたでしょ?」
「……」
「屋上で…」
知らん振りする事だって出来るのに、なんでわざわざ聞いちゃってるんだろ?
困惑する朝見以上に、困惑してる僕がいた…。
「気付いて…たのか?」
「…ううん」
「じゃあ…何で?」
困惑顔の朝見が、微かに眉を顰めた。
「コレ…」
「な…にしてんだ」
手にした小瓶を振って見せながら、首筋に吹き付けたフレグランスに顔を近付けると、朝見の身体が僕から逃げる。
「夢にしてはリアル過ぎると思ったんだ…この香りも…」
逃げる朝見の腕を掴み、首筋の香りを吸い込む。
「この感触も…」
そっと指を伸ばし、形の良い唇に触れる。
「非常階段でキスされた時、初めてなのに、初めてじゃない気がするって言ったよね?」
梅雨が明けてもじめじめしてた僕を、励まし、慰めてくれた朝見。
校舎北側にある非常階段で抱き締められて、キスされた…。
「あの時朝見は、≪勘違い≫だって言ったけど…勘違いじゃなかったね」
揺れる朝見の瞳を見詰め、にこりと微笑んだら、強張る顔にやわらかな笑みが浮かんだ。
弱くてダメな僕を、いつも、どんな時でも支えてくれる…強くてやさしい親友、朝見。
朝見がいなかったらきっと、恋する気持ちに気付かないまま、苦い痛みを抱え苦しんでたはず。
「ふ…今更嘘吐いても仕方ねえよな。そうだよ…屋上でしたキスは≪本物≫だ」
自分の気持ちを抑え込み、僕の恋を応援してくれてる朝見のほうが、もっと苦しかったはず。
≪溜め込んでばっかりいないで吐き出せ≫…なんて言ってる朝見のほうが、僕よりずっと溜め込んでいるはず。
「ふふ…やっと白状したね」
朝見だって僕と高校生なんだ…。
僕の為だからと言って、無理して笑ったり、黙って愚痴を聞いてくれなくてもいいんだよ。
もっと素直になっていいんだよ…。
朝見の言葉に、胸の痞えが取れた様な気がして、ほんの少しだけ気持ちが軽くなる。
「他にも隠してる事、あるんじゃない?」
寡黙な友の心に隠された鬱屈を晴らすなら今しかない…僕は畳み掛けるように質問した。
「うーん…それ位じゃないか?おまえに隠し事してたのって…」
「ホントに?」
「ああ…」
どんな隠し事も見逃すまいと、朝見の顔を必死で追いかけたら、急に真面目な顔して見詰め返された。
「あ…ひとつだけあった」
じいと見詰める視線の先で、朝見の眦がすうと細められた。
「いつも思ってたんだけど…」
…なに?
って言う前に、小鳥が啄ばむみたいなキスされた。
「ちょ…」
「そうやって見詰められたら、キスしたくなるの」
にやり、悪戯っぽい笑顔を浮かべながら、呆気に取られてる僕にもう一度キスしてきた。
「もう…」
むくれながら睨み付けたら、朝見は肩を小さく竦めた。
「これで隠し事無くなったな…」
そう言って笑う朝見の顔は晴れやかで、見ている僕の気持ちまで楽になった。
「キスされたくなかったら、そんなに近付いて来んなよ」
…冗談めかしてたけど、それが朝見の本心なんだ。
トンと胸を押し返されたら、僕達の間にいつもの距離が戻ってくる。
「したくても、させません」
いつもと同じはずなのに、今迄以上に心地よく感じるのは…何故なんだろう?
本心を明かしてくれた事に安堵しながら、僕に向けられた気持ちを嬉しく思ってしまう僕は…ずるい人間なのかもしれない…。




