第23話
1859年7月1日(旧暦安政6年6月2日)。
寒村だった横浜に、海外の窓口として港が出来た。
様々な技術や文化、人が集まる様になったその場所を中心に、横浜は大都市へと発展していった。
開港を記念して横浜港では昔から、祝賀行事が行われてきた。
祝賀行事はやがて、「横浜開港記念みなと祭」と名付けられ、横浜のビッグイベントとなった。
2009年6月2日、横浜港は開港150周年を迎える…。
「はあ…」
どんよりと深く立ち込めた雨雲を見上げて溜息。
ニュース番組の最後に伝えられる天気予報を見て、また溜息。
九州地方全域を襲った台風の影響により、発達した前線は関東地方にまで大雨を降らせていた。
『日曜日の≪みなと祭≫、一緒に行かない?』
そんな誘いを受けたのはおととい、涼太の買い物に付き合っていた時の事だった。
「え!?」
理解するまでに数秒掛かった。
『もしかして都合悪い?』
返事をするのに更に数秒…。
「あ…いえ…」
『良かった!じゃあさ…』
舞い上がってしまう気持ちを必死で抑え、合田さんの話に相槌をうつ。
電話片手に必死で頷く僕は、まるでどこかのサラリーマンみたい。
通話が終わった途端大きく溜息吐いたら、涼太と朝見に笑われた。
「明日…晴れるかな?」
なんてテレビに話しかけたら、『デートの予定でもあるの?』なんて母さんにからかわれた。
「べつに…」
不貞腐れる僕を尻目に、歌う様な調子で『晴れるといいわね~』なんて言われた。
寝る前に見た天気予報では、台風は日本海側へ抜けたと言ってたけど、それでも明日の天気が気になって、なかなか寝付く事ができなかった。
能天気な母さんの歌が届いたのか、翌日は朝から快晴だった。
渋滞や、駐車場確保の事なんかを考えて、僕達は電車で移動することにした。
いつものように駅へ向かい、いつもと同じ様に電車に乗る。
乗り込む車両は同じでも、乗車時間も服装も、行き着く先も今日は違うんだ。
電車の入線を知らせるメロディが聞こえると、心臓がどくんと音を立てた。
プシュっという音と共に扉が開くと、車内から流れ出した冷気に混じって、馴染みのある香りを感じた。
「こんにちは」
震える声で挨拶すると、合田さんがふわりと笑った。
今日の合田さんは、重ね着したTシャツにデニム、足元にはスニーカーという服装で、以前2人で出かけた時よりも、ずっとラフで、砕けてた。
普段ならきちんとセットされてる髪も、服装に合わせるように、自然なカンジに下ろされていた。
いつもと違う雰囲気に、上から下まで何度も確認。
数度目の確認で目が合って、恥ずかしくなって視線を逸らした。
「どうしたの?」
笑いをこらえたような声に、頬が朱に染まるのを感じた。
「だって…」
ラフな髪型と服装のせいで、今日の合田さんはいつもよりずっと若く見える。
合田さんを知らない人だったら、大学生でも通じると思う。
そんな見た目のせいかもしれない。
堅苦しいスーツじゃないおかげで、僕の気持ちも楽になる。
デニムとTシャツという姿に、親近感が湧いてくる。
大人だと思っていた人が、いつもより身近になった。
近付けないと思っていた人が、僕に近付いてきた。
台風一過の快晴で、今日はいつもより暑いかもしれない。
それでも横浜は、想像を超える人出かもしれない。
だけど今の僕には、そんなの関係ない。
予想される煩わしい事柄全てが気にならない位、軽やかで、わくわくした気持ちでいっぱいだった…。
みなと祭のフィナーレを飾るのは、赤レンガパーク・山下公園・臨港パークなどの各会場から夜空に向かって打ち上げられる6,000発の花火。
神奈川県で行われる花火大会は、江ノ島や由比ガ浜、茅ヶ崎といったビーチ沿いの花火大会が有名だけれど、交通の利便性や、繁華街に隣接した開催場所のお陰もあって、毎年沢山の人で賑わっている。
「すごい…朝のラッシュ並だね」
普段なら閑散としているはずの休日午後の電車内は、通勤時間帯並みの混雑を見せていた。
花火大会は19:30からだというのに、こんなに出足が早いのは、場所取りでもするつもりの人達なんだろう。
「ホントですね…」
人々が発する熱気に辟易しつつ吊革に掴まっていると、揺れる車両に身体が遠心力で振られる。
ぐらり、揺れた身体がぶつかり合うと、ちりり、小さな花火が火の粉を飛ばす。
「どうする?とりあえず中華街散策でもする?」
「はい…」
飛んだ火の粉は全身へ飛び火して、身の内側に小さな燻りを作っていく。
今からこんな状態じゃ、夕方までに全身燃え尽きちゃう…。
駅に到着するたび流れ込んでくる外気と、人の熱気を冷ます為、車内の冷房は少し強めになっていた。
だけど、そんな冷房位じゃ、僕の心は冷ませない。
…とりあえず落ち着け。
「19:30スタートだけど、少し早目に行った方がいいかもね」
「すっごい、混んでそうですね」
舞い上がる気持ちを必死で落ち着かせながら、今日の予定を話し合う。
「立ち見になるけど、大丈夫だよね?」
「僕は若いから大丈夫ですけど…?」
なんて、わざと冗談言って、自分の気持ちを切り替える。
「そこで年寄り扱い!?体力だったら負けないと思うけど?」
そんな気持ちを察してくれたように、ふふんと笑って応えてくれた。
…せっかく2人きりになれたんだから、最後まで楽しまなきゃ。
気持ちの準備が出来たところで、電車は石川町駅に到着した。
「うわっ、あっついねぇ」
冷房の効いた車内から一気に外へ追い出されると、僕達の肌にうっすら汗が滲む。
「なんか、暑くて息苦しいカンジ」
アスファルトの道路からはゆらゆらと陽炎が立ち、太陽光を浴びたビル群がギラギラと銀色に輝いている。
こういうのを≪ヒートアイランド≫って言うんだろうね、なんて言った合田さんの前髪を、熱気を孕んだ風が揺らしていった。
「なんか…不思議ですね」
「何が?」
片手でざっと髪を直す姿が、合田さんをいつもより男らしく見せている。
「合田さんて、仕事と普段の姿…ギャップありすぎです」
でもそこが良いんですけどね・・・なんて心の中で呟いた。
「そう?」
「その前とも雰囲気違うし…」
僕の言葉に、合田さんは自分の服装をざっと見下ろした。
「ふふ…この前はね、ちょっとだけカッコつけてたんだ」
コッソリ秘密を打ち明けるような口調にドキリとする。
「なんで…?」
せっかく落ち着かせた心臓が、再びとくりと音を立てはじめる。
「山郷くんに合わようかなって思ったんだけど、どんな格好していいか分からなくて…」
僕に合わせるって…。
今…そう言ったよね?
そんな事言われたら、僕の心臓…壊れちゃうよ。
かあと赤く染まった顔を見せたくなくて、ふいと逸らした。
「これじゃ、若作りなのかなぁ?」
拗ねた口調がおかしくて、ぷっと笑いを洩らした僕に
「ホントはさ、こんな格好の方が多いんだけど…さすがに似合わない年になったって事かなぁ…どう思う?」
なんて、今度は相談口調。
「合田さんはカッコいいから、何でも似合いますよ」
雑貨屋の店先に陳列された人民帽を手に取ると、合田さんの頭にぽふっと載せた。
「そう?ありがと」
からかうつもりで載せたのに、店頭に吊るされた鏡を見ながら、適当に載せられた帽子をかぶり直すと、合田さんはあっという間にそれを自分のアイテムにしてみせた。
「そういう山郷くんだって…」
ぽんと載せられたのは、ぬいぐるみ生地で出来たパンダの帽子。
「ふふ…かわいい」
「えっと…」
「山郷くんはかわいいから、かわいいモノが似合うね」
満足そうな笑みを浮べられると、そのままでいた方がいいのか、とってしまった方がいいのか分からなくなる。
「そろそろ行こうか」
店頭の雑貨で一通り遊んだ僕達は、そのまま中華街散策を続けた。
大勢の人で賑わう中華街を、2人並んでぶらぶら散策。
異国の香りと、異国の言葉、様々な人々とすれ違う。
誰もがみんな笑ってて、なんだかとても幸せそう。
みんなが幸せに見えるのは、きっと僕が幸せだから。
天井まで商品がうず高く積み上げられた雑貨店や、美味しそうな香りが漂う料理店。
他愛もないことで笑いあいながら、すり抜けていく狭い路地。
あまりに沢山の人がいるせいか、今日は少しも気にならない…2人だけで歩くって事が。
街中を歩くにつれ、僕達の距離が近くなる。
混雑する街中じゃ、離れていたら会話も儘ならない。
中途半端に離れていたら、かえって人の邪魔になる。
だから自然と寄り添って、気付けばお互いの肩を触れ合わせながら歩いてた。
こうやって肩が触れ合っても、この前みたいにどきどきしないのは、きっとこの街が醸し出す雰囲気のせいなんだ。
みんなが楽しそうに歩いてるから、僕も自然と楽しくなる。
すれ違う人が笑ってるから、僕の顔にも笑顔が浮かぶ。
「喉渇いたね」
一通り散策して、ちょっと疲れたところで休憩タイム。
おやつと称して、夕食並みに点心を注文。
あっという間に平らげて、それでもなんだか足りなくて、『甘いものは別腹』なんて女の人みたいな事言って、中華スウィーツを追加注文。
「よく食べるね~」
なんて言い合いながら、お腹を満たしていく。
茉莉花茶の爽やかな香りを堪能したら、おやつタイム終了。
「少し早いけど、行ってみようか」
お腹も心も目一杯満たされた僕達は、翳り始めた日差しの中を、山下公園に向かって歩き出した。
山下公園に着いたのは18時前。
花火大会開始は19時30分だというのに、既に大勢の人が集まっていた。
レジャーシートも、折りたたみ椅子も、何も用意してない僕達は、空いてる場所を見つけるとそのままそこへ座り込んだ。
耳を劈くような轟音とともに打ち上げられていく幾多の花火。
ぱっと夜空に大輪の花を咲かせ、くるりくるりと色彩を変えていく花火はまるで、空に浮かんだ万華鏡。
次々に打ち上げられる花火を見上げながら、僕は自然と歓声を上げていた。
「上ばっかり見てたら、首痛くなるよ」
花火の轟音にかき消されてしまわないようにと、耳に息がかかるほど近い距離で話しかけられ、僕の胸がどきんとした。
「海も見て」
肩に置かれた掌の熱が、心の奥で燻っていた燠を再び燃え上がらせる。
すうと指し示された海面に、大輪の花火が散っていった。
「わあ…」
凪いだ水面に映る花火はまるで、水中から打ち上げらているかの様で、とても綺麗で幻想的だった。
「これを見せたかったんだ」
にこり、キレイな笑顔を見せられて、身体中のあちこちに大きな花火が打ち上がる。
ドン!ドン!
夜空に響く轟音よりも大きな音が、僕の胸から聞こえてくる。
水面に視線を注ぐ合田さんの横顔に、色彩の花びらが舞い降りて、整った横顔を美しく染め上げた。
綺麗だなって思った瞬間、胸の奥がきゅうとした。
…僕はこの人が好きなんだ。
唐突に、だけど必然的にそう思った。
この気持ちが≪恋≫なんだと確信した。
今まで人を好きになったことのない僕は、この気持ちが何なのか知らなかった。
これが≪恋≫だと教えられても、それを信じ切れない自分がいた。
だけどやっと分かったよ…人を好きになるって事が。
痛いくらいにきゅうと胸を締め付ける、この気持ちが≪恋≫なんだ…。
自分の気持ちに自信が持てないまま、玉砕覚悟で告白して、≪友達≫から始める事になった僕達の関係。
だけど≪友達≫と呼ぶにはあまりにもあやふやで、不自然だった2人の距離。
クライマックスを迎え、盛大に打ち上げられた花火が夜空で幾重にも重なっていく。
美しくも儚い光景を見つめながら、この≪恋≫も重なり合うことが出来たらいいのに…なんて願ってた。




