第11話
すごくリアルな夢を見た…。
屋上に寝転んで泣いている僕の側に誰かがやって来て、太陽を背にしながら僕の顔を覗き込んできた。
降り注ぐ太陽が顔に影を作り、僕の位置からではその人の顔を確認することが出来ない。
『誰…?』
問いかけると、影の奥にある顔がふっと笑みを浮かべた気がした。
『泣くな…』
ゆるりと伸ばされた指先が頬を伝う涙を拭うと、初夏の風のように爽やかな香りが僕の鼻をくすぐった。
… あ、この香り。
『朝見…?』
優しく触れられた指先の温度と、馴染みのある香りに包まれると、僕の瞳から再び涙が溢れ出した。
『泣くな…皐月…俺が側にいるから…』
子供みたいにしゃくりあげて泣き出してしまった僕の顔を大きな両手が包み込むと、あやすようなキスをして朝見が笑った。
…どうして?
朝見がくれたキスはすごく優しくて、泣いてる僕を癒してくれる気がして…男同士なのに嫌だなんて少しも思わなかった。
『ありがと…』
慰めのキスにお礼を言いうと、朝見は蕩けそうなくらい優しい笑みを浮かべてた。
泣きながら、いつの間にか眠ってしまったみたい。
コンクリートに体温を奪われ、冷えた身体をぶるりと震わせながら目を覚ました。
「朝見…?」
さっき見た夢があまりにもリアルで、まだその辺に朝見がいるんじゃないかと思って、思わず名前を呼んでしまった。
「ふふ…いるわけないか…」
硬いコンクリートに寝転がっていたせいで身体の節々が強張り、そこらじゅうが痛みを訴えているから、両手を天に突き上げるようにして思い切り身体を伸ばした。
「うーん…」
目一杯伸ばした腕の力を一気に抜くと、肺の中に溜まっていた酸素と一緒に色んなものが吐き出された気がした。
少し眠ったせいかな?
思いのほか気分が良くなっている事に気が付いた。
「そろそろ教室戻ろうかな…」
ゆるめに巻いた腕時計を振って見易い位置に持ってくると、デジタルの文字盤には≪14:37≫と表示されていた。
「うそッ!?6時間目始まってる…」
それまでのゆったりした動きから一転、勢いよく立ち上がると屋上から教室へ向かって走り出した。
教室の後ろからこっそり教室を覗き込むと、丁度先生が黒板に板書している最中だった。
「やった…」
気付かれないようにそっと扉を開けると、自分の席目掛けて忍び足で進んだ。
席に着いた途端、前の席に座るクラスメイトが僕の気配を察知して振り向いた。
「どこ行ってたんだよ?」
「ん?ちょっと寝てた」
「いい身分だな」
「まあね…」
先生に気付かれないように小声でやり取りをしている僕の視線は、無意識のうちに右斜め前の席に吸い寄せられていた。
朝見はいつだって姿勢が良いんだ。
黒板の文字をノートに写す時や、問題を解いている時だけじゃなく、だるい授業の最中でさえピンと背筋を伸ばしてる。
その姿はまるで、書道や茶道を嗜んでいる人みたいに凛とした美しさを持っている。
…あれ?
ひそひそと話をする僕達に、一瞬だけ朝見の視線が向けられた様な気がした。
あれは本当に夢だったのかな?
微かに鼻腔をくすぐった香りと、少し汗ばんだ熱い掌の温度、軽く啄ばむようなキスの感触…。
全てがの感覚があまりにもリアルすぎて、現実との区別が付かなくなる。
だって僕は、キスなんてした事がない。
なのに何であんなリアルな感触の夢を見たんだろう?
昼休み、僕は生まれて初めての失恋を経験した。
なのに今は、夢の中で交わしたキスの感触が気になって、失恋の痛みを少しだけ忘れてた…。
何で、朝からこんなにコソコソしなきゃいけないんだろ?
怪し過ぎる自分の行動に、思わず笑ってしまった。
藍錆色のブレザーに身を包んでいるのは高等部の生徒、消炭色のブレザーは中等部。
同じ制服に身を包んだ集団は朝からテンション高めに騒ぎながらも、それなりの秩序を保ってバスを待っている。
いつもより早目に起きた僕は、その列に紛れながら、ある人物の姿がないかと探してた。
「お~皐月ッ、早いな!」
目ざとく僕の姿を見つけた涼太は、何食わぬ顔で列に横入りしてきた。
「もお、横入りするなよ…後ろに並べってば!」
「いいじゃ~ん、困った時こそ助け合うのが友達ってもんだよな」
「こんな時だけじゃん、≪友達≫なんて言うの…」
少し棘のある言い方したら、涼太が苦笑した。
「あはは…もしかしてオレって相当嫌われちゃってる?」
「え!?そ、そんなことないけど…」
僕が発した返答に、ちょっとだけ戸惑いが混じってしまった。
ちょっと苦手…だけど嫌いじゃないし、好きでもない。
それが涼太に対する正直な感情。
朝見と三人でつるんでる時からずっと、『何でこのメンバーなんだろ?』って思ってた。
派手好きで、女好きで、遊び好きの涼太。
クールで知的で大人の朝見。
理想ばっか追い求めてるくせに、奥手で何にも出来ない僕。
バランスが良いのか悪いのか…三人でいる時はその均衡が上手く保たれてた。
朝見と僕の関係がおかしくなって、涼太と一緒過ごす時間が多くなった。
だけどそれは、一人で過ごすよりマシだと思ったからで…ああ、僕って結構嫌なヤツかも。
「あーッはいはい、分かったよ!」
戸惑いながら答える僕に、涼太は呆れ顔で答えた。
「分かったって、何が?」
「おまえってさ、分かり易すぎ…朝見が一緒だとマジ楽しそうな顔するくせに、オレと二人きりになった途端に口数減るんだもんな…そんな露骨な態度取られると正直ヘコむぞ、オレだって」
涼太は僕のひどい態度を軽く笑い飛ばしてくれた。
「ゴメン…」
「うわ、そこで謝ったらオレの言った事認めてるってことだろ!嘘でもいいから『そんなことないよ』くらい言って欲しかったなぁ…」
自分じゃ普通に接してるつもりだった。
感情が表に出てるなんてこれっぽっちも気付いてない僕に対し、以前と変らず接していてくれた涼太を少しだけ見直した。
「もしかして涼太ってさ…実は結構面倒見良かったりする?」
「今更気が付いたのか!?あ~マジヘコみまくりだ…皐月といると」
なんて言いながらカラカラと笑い飛ばす涼太につられ、僕も笑ってしまった。
僕には≪人を見る目≫っていうものが全然無いのかもしれない。
自分の中で勝手に作り上げたイメージを、そのままその人に当て嵌めていた。
目の前にいる涼太がそのいい例だよ。
すれ違う女の子達に軽口叩きながら挨拶を交わしている涼太の事、≪女好きの軽いヤツ≫っていう風にしか見ていなかった。
自分で勝手に作り上げたフィルターを取り除いてみたら、涼太の事ちゃんと≪友達≫として見れるかな?
そんな事考えながら涼太を見ていたら、駅の方から涼太と仲の言い女の子が降りてきた。
「おはよう、涼ちゃん!」
「おはよ~ん、今日も愛してるよ~!」
相変わらずなやり取りに苦笑していると、涼太がその子に向かってわざとらしいくらい大げさに投げキスを送った。
『今時それってどうなの?』
さらに苦笑してると、ある疑問が頭に浮かんだ。
「ねえ涼太…キスってどんな感じ?」
「はあ!?」
突拍子もない質問に涼太が固まった。
「キ、キスの感じ…って、まさかとは思ってたけど、やっぱり皐月って経験無かったのかよ…」
女の子達ににやけた視線を送っていた涼太の表情が一転、真顔で聞き返されてすごく恥かしくなった。
「あ、当たり前じゃん、だって…誰とも付き合った事無いんだから…」
それはつまり、キス以上の経験も無いって告白してるのと同じ事で…。
「そういや、そうだったな…」
今の話、何となく前後の奴等に聞かれてる気がして、恥ずかしさのあまり顔が真っ赤になってしまった。
「実地体験?それとも講釈?」
恥ずかしがる僕を相手に、俄然やる気が出てきた涼太。
その顔にはいつものニヤニヤ笑いが戻ってた。
「こ、講釈のほうで…お願いします…」
『お願いします…』って、何で敬語使ってるんだろ?
恥ずかしさの極限に達した僕の頭は、茹で上がって、ワケ分かんなくなってる。
「こんな所じゃナンだからさ…昼休みにでもゆっくり講釈してやるか」
恋愛の先輩にして、先生となった涼太は、足取りも軽くバスに乗り込んでいった。
そんな涼太の後姿を眺めながら、僕は大きな溜息を吐いていた…。




