極私的俳句論、 super private haiku poem theory その3、俳句の過去。
桑原武雄の「第2芸術論」は確かに衝撃的だった。
しかし、
それに対する俳句界からの反応は極めて鈍いものだった?かもしれない。
なんといわれようと宗匠たちは伝統俳句に安住していればよかったし、
人々も俳句に対して、過大な要望も無かったからだろう。
俳句、短歌。相撲、歌舞伎、お花に茶道。
それらをひとくくりにして
日本の伝統文化だから、まあそれで、そのままで、いいじゃないかというのが
人々の本音だったかもしれない。
明治近代化で忘却の彼方に忘れ去られようとした俳諧を救ったのが言わずもがな
正岡子規である。
そして高浜虚子のホトトギス全盛期、
花鳥諷詠、客観写生の唱導が俳句の真理と考えられた。
またそれらに対するアンチテーゼ?としての
新興俳句運動(西東三鬼)や、自由律俳句運動(尾崎放哉、荻原井泉水、種田山頭火)
なども活気を呈したが
それらも戦後になると精彩を欠いて
収束した感もあった。
闇市焼跡を通り過ぎて
戦後の俳句の潮流を見てみると、
確かに1時期、革新的な俳論や流派?もあったが
それらのいずれも竜頭蛇尾で
いつの間にか消えて行って
さて今現在
残っているのかと言われれば
残っていないとしか言えないのである。
そんな俳句界の革新的な?潮流の主なものが以下のようなものだろう。
私の知る限りの戦後俳句の主だった思潮は以下のものであろうか。
挨拶と滑稽 存問俳句という言葉がある。そして俳諧の雑味というか軽みが俳句だという説。
根源俳句 もっと根源的なものの追求こそ俳句だという説。(これはじつは俳句の王道です)
境涯俳句 貧しさや不遇をことさら詠う俳句。貧しい時代によくありました。
社会性俳句 社会性を持たせなければという説。
風土俳句 土俗や風土を専門に詠う、(でもこれって実は俳句の王道なんですけどね)
前衛俳句 伝統を廃した、金子兜太の若かりし頃の俳句、難解俳句とも言う。
今、氏は伝統俳句に舞い戻っているようですね。
まあこのように戦後の俳句の潮流はいろいろあったんですが
それのどれもが出ては消えていきまして
今は社会が安定するにつれ、自己の拠り処をどこに求めようとかの
求める切実さは失われ、ことさらな新しい俳句運動やら、新しい俳句の探究も
全くないというのが現状ですね。
私が想うに
根源追求と風土諷詠は、これは俳句の王道であり、
この二つの無い俳句はありえません。
まあこの辺を主柱にしてそれに個性を加えればあなたも立派な俳人です。
ですが
俳句界というのは
相撲とか華道、茶道などの芸道と同じで
宗匠がいて弟子がいて、流派があってという
世界ですから
これはもういわゆる文学ではない世界なんですよね?
文学だったら
もっと自由に自己表現できますよね。
俳句のように、いちいち、宗匠の添削など受けたりしますか?
また師匠とか、弟子というのがそもそも文学ではありえないのですね。
ドストエフスキーのお師匠さんとか、お弟子さんとか一門とか流派とかありえないでしょ?
それにたいして、
まあ俳句の世界というものは伝統であり、
流派であり、家門であり、〇〇派であり、師匠は誰であり
師匠が死ねばその子供が後をついでその流派を守っていくという世界ですからね。
これで純粋に芸術ですとはいえないでしょ?
おけいこごとの世界、お花の家元とかそういう世界でしょ。
俳句とはそういう特殊なものなんですよ。
このあたりのいわくいんねんを坂口安吾が
こんな風に評してますよ。
当意を得たりというところですね。↓
芥川龍之介も俳句をつくつてよろしい。三好達治も短歌も俳句もつくつてゐる。散文詩もつくつてゐる。ボードレエルも韻のある詩も散文詩もつくつてゐる。問題はたゞ詩魂、詩の本質を解すればよろしい。
主知派だの抒情派だのと窮屈なことは言ふに及ばぬ。私小説もフィクションも、何でもいゝではないか。私は私小説しか書かない私小説作家だの、私は抒情を排す主知的詩人だのと、人間はそんな狭いものではなく、知性感性、私情に就ても語りたければ物語も嘘もつきたい、人間同様、芸術は元々量見の狭いものではない。何々主義などゝいふものによつて限定さるべき性質のものではないのである。
俳句も短歌も私小説も芸術の一形式なのである。たゞ、俳句の極意書や短歌の奥儀秘伝書に通じてゐるが、詩の本質を解さず、本当の詩魂をもたない俳人歌人の名人達人諸先生が、俳人であり歌人であつても、詩人でない、芸術家でないといふだけの話なのである。坂口安吾
まさに至言ですよね。
俳句しかできないというのも一種の奇形でしょうか?
というか俳句という特殊な世界にしか居場所がないという人々、
しかも詩魂も持っていない専門俳人が
宗家ですと言って
弟子の作品を添削するという世界、
まあ思えば奇妙奇天烈な奇形な世界ですよね。?
俳人ではあっても
詩人でもない、芸術家でもない
そんな奇形な世界がはたして
文学たり得るのか?
それはたとえば、
相撲が神事であり、神に奉納するものであり
純粋に勝ち負けを競う近代的なスポーツではないことは誰でも知ってますよね?
それとある意味同様に
俳句も文学や芸術なんかではなくて
ましてや詩ですらなくて、
俳句神事?みたいな日本伝統のお神楽みたいなものだと思えばいいのでしょうか?
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