旅立ちの時
「出立はいつになる?」
「明後日、神戸に向かいます。英国船に乗るのですが、貨客船の上に観光客も多いそうですから寄港地も多く、二月ほどはかかるでしょうか」
「そうか、真紀が洋行した折りは確か半年以上はかかったと聞いているが……」
「母上が行かれた時よりも船の技術も上がっていますからね、それにその頃はスエズ運河はなかったでしょう? アフリカを回らずにすみますから、随分早いでしょう」
穏やかな物言いは、本人は知ってか知らずか母親そっくりだな。内心だけで思いながら、容保は苦笑する。しかし父の苦笑を認めた息子は、眉をしかめる。
「なんですか、父上」
「……いや、話しぶりが真紀にそっくりになってきたなと思っていた」
「兄上もそう仰います。最近、とみに似てきたと」
口の端に微笑みを浮かべながら、容紀は父の杯に酒を注いだ。
「そうだな、お前には真紀の記憶はないか」
無理もない、一歳を迎える前に母は旅立った。容紀にとって母の姿の記憶は、たった一枚残された写真の中で、幼い自分を抱える母の姿だ。
「だが、お前と廸だと、廸よりもお前の方が真紀に似ているな」
「会津の者たちには目は父上そっくりだと言われますよ。確かに自分もそう思います」
切れ長の目で微笑まれて、容保は頷いた。
『廸より目元は容保どのにそっくりですね。将来楽しみですね、宮中で光源氏の再来と呼ばれた方のようになるかしら』
冗談めかして言った真紀の言葉が甦る。
「学問好きは母親似だな。真紀はいつも書冊を読んでいたから」
「父上もでしょう?」
「いや、真紀の方が造詣は深かった。それも様々なことに興味があったようだ。蔵の蔵書を見れば分かるだろうが」
父に言われて会津の館の蔵書の山を思い出す。軍制から土木、工芸、科学、何でも揃っていて、洋書も多い。その殆どに付箋が添えられ、あまり上手とは言えない筆跡で書き添えがびっしりと書かれていた。容紀は頷いて、
「母上のお蔭で、今の自分があるのだと本当に思えます」
学ぶことへの興味を覚えた容紀は幼くして、神童と呼ばれるほどの才を発揮した。真紀の残した蔵書から始まり、容保が手ずから教えた漢学や和歌なども砂が水を吸うように飲み込み、通常ならば十六歳で入学する学舎の最高峰・国立京都大学に十二歳で特別に入学を許された。十五歳で卒業資格を得るがそのまま残留し、十八歳で新設された大学院に進み、二十歳の今年、同じく新設された博士号を日本文芸部門で初めて取得した。
そして、国費留学生に選ばれ、イギリスでの四年間の留学生活を迎えるため、明後日旅立つのだ。
「イギリスでの勉学の場所は決まったのか?」
「はい、兄上がハリス伯爵家に頼み、オックスフォード大学に入学手続きをしていただきました。兄上も自分ほどの語学力ならば、充分大学での授業について行けるはずと、太鼓判を押してくれました」
長子の穣太郎、今は改名して容真が、京都大学に入学したのは容紀に先立つこと五年。容紀が入学した時には既に卒業し、二年間のイギリス留学に旅立っていた。
容真は留学から帰国後、父が開いた士官学校に入学、四年前に卒業して、今は国防陸軍中佐を勤めている。留学が終わったら、兄のように士官学校に入る気はないのかと容保が問えば、容紀は穏やかに頷いた。
「自分は学問で身を立てます。軍人は長子の兄上に頼みます。そうすれば松平家も安泰でしょう?」
『腹を痛めて生んだ子ではないけれど、穣太郎が我が家の長子です。私はそれほどの愛情をあの子にかけて来ましたよ』
真紀が穣太郎を嫡子に据えることを望むのに、何の迷いもなかった。それは廸が生まれても、瓊二朗が生まれても一切揺るがなかった。寧ろ揺らいだのは家中。瓊二朗が生まれた時、容保はそれでも嫡子は穣太郎であると発言して憚らなかったが、それが後々に穣太郎の引目になろうとはその時は気づかなかった。
容真と廸の婚約が整った時、容保は家督を容真に譲ろうとした。だが容真は頑なにそれを拒んだ。若輩であるから、留学する身であるからと理由を並べたから、容保はそれ以上は問わずに、容真の留学を見送った。
容真が留学を終えて帰国し、廸が女子大学を卒業した頃合いを見計らい、二人は華燭の典を挙げたが、その時も容真は家督相続を固辞した。そして去年、長男・容至が生まれても、家督相続を固辞し続けている。
固辞の理由を分かっていて、容紀は言うのだ。
「瓊二朗」
幼名で呼び掛けることなど久方なかったが、容保は問う。
「よいのか、瓊二朗」
「無論です。父上の跡を襲うのは、兄上です。そう思わなかったことなど、一時たりともありませぬよ。血の繋がりが薄いとは言えども、私にとって兄上は一人だけです。そう思って今まで生きてきたのですから。実はこの話、兄上に何度申し上げても、笑って誤魔化され、それでも母上の生んだ男子はそなただけだと仰るだけで、辟易していました」
容紀は苦笑しながら、杯を傾ける。家族の誰もが、容真を嫡子と思っているのに、容真だけがそれを受け入れられないのだ。
「あれは…廸が生まれる前だ」
容保も杯を傾けながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
妊娠したと判った真紀は、右筆たちにきつく言ったという。腹の子が男子であっても嫡子は穣太郎である、決して穣太郎の心が揺れるようなことを穣太郎の耳に入れるなと。だが口には戸板をかけられずとよく言ったもので、穣太郎はどこからか口さがない噂を聞きつけ、もし生まれてくる子が男子ならば、自分は里に帰されると思い込んだ。真紀はその穣太郎の不安を取り除くのに随分と苦労したのだ。
「子供心に残ってしもうたのやも知れぬな……それがわしがそなたが生まれた時、嫡子は穣太郎と何度となく明かした故に、余計そなたに引け目を感じて」
「父上、そうであっても自分は嬉しくなど思いませぬ。自分は何も知りませぬ、会津松平家を継ぐ為の教えを受けているのは、兄上なのですから」
「……そうだな」
容紀は再び容保の杯に酒を満たし、
「ですが、そういう頑固なところは父上そっくりですね。兄上は」
「……全くだ」
話はとりとめもなく続き、酒も尽きて容保は腰を上げた。
「ここまでとしようか」
「ええ、そうですね」
「……容紀」
静かな声で呼び掛けられて、容紀は顔を上げた。
「父上?」
「済まぬな」
「何がです?」
「……そなたに家督を譲ってやれずに」
「父上」
「容真の言う通りであるやも知れぬ。まことならば」
「父上」
容紀は強い口調で父に呼び掛ける。
「それ以上は聞きたくありませぬ。先に申し上げたことは、自分の嘘偽りのない気持ちです。自分の兄は一人だけ、兄上が家督を継ぐことに何ら異存などありようもないのですから。兄上、容至と家督は継がれていくべきでしょう? ですからこのようなこと、二度と仰らないで下さい」
「容紀」
「何より、母上が望まれたことです。母上ならばこう言うでしょう。容保どの、築いた礎が揺らいではその上に立つ者が揺らいでしまいますよ、と」
容紀の言葉に、容保は瞠目する。容紀の背後に今は亡き妻の微笑む姿が見えた気がした。容紀は苦笑しながら、
「蔵書の母上の書き添えにありました。礎揺らがば、その上は礎よりも揺らぐ、と」
容保は目を閉じる。内心で容紀の言った言葉を数回繰り返して、それからゆっくりと微笑みながら目を開けた。
「そうだな、真紀ならばそう言うだろう。済まぬ、今の言葉は忘れてくれ。酔うたようだ」
その夜、容紀は夢を見た。
打ち掛けも羽織らぬ、小袖姿の女性が小さな小さな赤子をあやしている。子守唄を囁かれて腕の中の赤子はすやすやと眠っているようだ。女性はそれを見つめて、起こさぬようにと小さな声で囁いた。
「瓊二朗、あなたはどんな人になるのかしら、きっと容保どのに似た、真っ直ぐにものごとに向かっていく人になるのかしら。私は見届けてあげられないけれど、何より幸せになって欲しいの。穣太郎も、廸も、瓊二朗も」
女性は顔を上げた。
自分に似た、いや自分が似ている口許。姉の廸が似ているという大きな目。
「瓊二朗、幸せになりなさい」
目覚めれば、眦から伝う涙に気づき、容紀は苦笑する。
母の夢など、見たことがなかった。昨夜、父と母の話をした所為か、父と交わした酒が酒量を超えていたのかわからないが、夢に出てきた女性は母だと判った。
母に会いたいと焦がれたことがなかったと言えば、嘘になる。父や兄や、かつての家中の者達から母の話を聞いて、たった一枚残された写真の母の姿を見て、想像するしかなかった。
だから、膨大に残された蔵書の書き添えが容紀にとっては、母そのものだった。
「俺の、願望か?」
一人ごちて、容紀は口の端に微笑みを浮かべる。
それでもいい。
母は言った。
幸せになりなさい。
それは余りにも漠然とした望みで、しかし親ならば誰しも望むことだ。そして自分はもう母の面影を探して蔵書に埋もれた幼い自分ではない。
これだけで、充分だ。
「幸せに、なりますよ。母上、それがあなたの子として生まれた自分の、努めですから」
容紀は眦を伝う涙をそのままに、微笑んだ。




