奇術
上杉は目を閉じて、自分の心臓の上に右手を置いた。それは胸の高鳴りを抑えているように見えるが、実際はスーツの胸ポケットに入った桜のつぼみに触れるためだった。そのつぼみは上杉の妻から上杉に贈られたものであり、上杉が咲かせることのできなかった唯一の花である。
大勢の観客が広い劇場の座席から、その上杉という中年の男を見守っている。上杉は、はっと我に返り、自分が舞台中心に置かれた高い台の上に立っていることを思い出した。その台と並んで横には、上杉の身長の倍の深さはある大きな水槽が用意されていた。台の上には、天井から伸びた鎖に繋がれている小さめの酸素ボンベがあり、上杉はスーツ姿のままそれを背負った。鎖はたるんだ状態で、その一部は水槽の中の冷水に浸かっていた。上杉が動くと、鎖の音と、冷水の中に大量に入れられた氷のぶつかり合う音がした。
「ここには観客のみなさんと、ある一組の夫婦しかいません……」
上杉が観客に向かって話し始めた。
「そのある一組の夫婦は、偉大なる奇術師とそれを支える美しい助手のことです。みなさんも一度はご覧になったことがあるでしょう、虫が人形のように操られているところを。――もしよろしければこの場をお借りして、みなさんにお詫びしたいことがあります。私は嘘をつきました。あれは単なるマジックなどではありません。テレビや雑誌で流されている噂は事実なのです。昆虫が犬や猫のように訓練しても賢くなるわけがない。つまりそう、この私は、本当に虫を意のままに操ることができるのです。」
そこへ一匹の、輝きを放った煌びやかな蝶が飛んできて、迷うことなく上杉が手を伸ばしたその指先にとまった。上杉はその蝶を反対の手で捕まえようとすると、蝶はまた飛んで、今度は上杉の鼻の上にとまった。上杉は手のひらを上に向けて両肩を上げながら、目を中央に寄せ、口をすぼめて、観客におどけてみせた。観客が笑って拍手をする。上杉がお辞儀をすると、蝶は羽ばたき、空中で大きな円を描くように飛び始めた。
「今、私の意識の一部をこの蝶に注ぎ込んでいます。だから、私の考えた通りに動かすことができるのです。――温かい拍手ありがとうございます。それでは、もっとすごいことをさせましょうか。今にも凍りつきそうな冷水に沈めることも、一瞬で死に至らしめる毒液を飲ませることも、私にはできます。」
上杉はそう言ったものの、蝶は円を描くのを止め、何事もなかったように真っ直ぐ来たほうへと戻っていき、舞台から出ていった。上杉は腰に両手をついて視線を下げ、ため息をついた。観客は拍手を止めて、会場は静まり返った。
「ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、私はある疑いをかけられていました。それは、この一団、といっても今は二人だけになりましたが、ともかく、一団の私の前に団長をしていた人物がスズメバチに刺されて亡くなった事件を、私が引き起こしたのではないかという疑いです。無論、私は何もしていません。警察とも話はついています。――私は、私に与えられたこの力を使う度に、自分の無力さを実感します。人間はやはり自然には逆らえないのだと、そう感じるのです。私は何もしませんでした。そして、何もできませんでした。妻の時も同様です。私は妻を助けることができなかった……妻の幸には元々、脳に障害があって七歳児程度の知能しかありません。私は必死に幸のことを目にかけていたつもりです。ただほんの少し、その目を離した時のことです。幸は事故に遭い、一命は取り留めたものの、意識を失ったままの状態になってしまいました。そして今、そこに座っているのが幸、私の妻です。」
上杉は言い終わると、舞台の前のほうを指さした。そこにはマイクスタンドがあり、それに付いたマイクの向けられているところには、一人用の黒いソファーがあった。そして、そのソファーの上に細身の女性が大きなつばある白い帽子で顔を隠して座っていた。その女性は全く動く気配がなく、呼吸で微かに体を上下させているだけだった。
「表向きにはできなかったのですが最近は、別の小さな劇場で名前を変えて出演し、幸に対して意識の注ぎ込みを行っていました。そして、自分でも信じられないことですが、虫と同じように、幸の身体を操ることに成功しました。その光景を観た人たちは口を揃えて、幸には意識があると言いましたが……」
上杉はそこで一度話すのを止めて、幸の方を睨むように見た。すると幸の右手がゆっくりと動き、帽子を取って膝の上に置いた。その瞬間、客席にざわめきが起こった。幸の顔は青白く無表情で、小さく瞬きをすることはできるものの、そのまぶたの奥には魂の抜け出たような暗い眼があるだけだった。観客にはそれが、到底生きているもののようには見えなかった。
「まるで枯れた花のよう……」
上杉はそう言った後、また黙り込んでソファーのほうに強く視線を送り、幸に帽子をもとに戻し、顔を隠させた。
「医者の話では余命はとっくに過ぎてしまっているそうです。それでも幸の心臓が止まることなく鼓動を続けているのは、私が体を操り、食事や排泄をさせて、時には呼吸までも手伝っているからです。――ところで、花のとって一番の苦しみはなんでしょう? それは、死んでもなお、土に戻らず枯れたままこの世に留まっていることです。私は幸を操っている時、それに似た苦しみを感じます……ではなぜ、幸を土に葬ってあげようとは思わないのか。なぜなら、幸は助かるからです。私は幸の体を操っても、笑ったり泣いたりさせることはできません。また、幸の口から声を出させることもできません。私はまだ、完全に幸を操れていないのです。幸の失ったはずの意識が私を邪魔しているせいです。それは幸の中のとても深い所に隠されている意識なのでしょう。それが消え去らない限り、幸は助かります。幸の中に眠っているその意識を、私が今この場で呼び起こしてみせます。」
上杉はそこでもう一度、胸元に右手を置いた。上杉はそうやって何度も桜のつぼみに意識を注ぎこんだが、やはりその花にだけは、何の変化も起こらなかった。上杉は諦めがつかないでいたが、いつまでも客を待たせるわけにはいかなかった。
「幸の眠っている意識を起こすには、私の体の中にある意識のほぼ全てを注ぎ込む必要があります。そのためには一度、私は、私の体を捨てなくてはいけないと思います。ですからここにある水槽に入り、私は冷水の中で自分を仮死状態に追い込みます。その一時的な死によって私の意識は肉体を離れるのです。そして、私は幸の中に入り、幸を救い、次に幸が私を救い出してくれます。そこに置かれたマイクが幸の声を認識すると、この私を繋いだ鎖が自動的に巻き上げられ、私は水槽から脱出することができるという仕組みになっています。幸は意識を取り戻してまず初めにこう言います。『花は咲いた』と。――先程も話した通り、ここには観客のみなさんと、ある一組の夫婦しかいません。ですから、たとえ私に何があろうとも、座席を離れることのないようにお願いいたします。」
上杉は水槽の方を向いて、前に足を進めた。次の一歩で水中に落ちるというところで一度止まって、上杉は幸の座っている黒いソファーの背中を見た。
「大丈夫、枯れたらまた咲かせればいい……」
上杉は小さくそう言って、水槽の中に飛び込んだ。
――東京にある孤児のための医療施設で、一番人気のない管理病棟の中にある一室に上杉は立っていた。いつから、どうして自分はそこにいるのか上杉にはわからなかった。背負っていたはずの酸素ボンベはなくなり、上杉はただのスーツ姿になっていた。その部屋の扉に外から鍵がかかっていることを知り、そこから出られないとわかると、上杉はわけがわからず、とにかく不安になった。
「僕はここを出た。ここを出たはずじゃないか……」
上杉は徐々にそこがどんな場所かを思い出していった。そこは上杉が二度と戻ってきたくない場所だった。――上杉は終戦の次の年に生まれた。それから間もなく立て続けに両親を失い、医師の勧めでその病院に入れられ、七歳になるまで、一日中鍵のかかった病室にほとんど監禁されて生活をしていた。その部屋に今、再び上杉は閉じ込められてしまったのだ。
「桜がもうすぐ咲きそうなんだよ!」
幸の声が聞こえてきて、上杉は自分が今、幸の記憶の中にいることに気づいた。幸は、上杉のいる病室の隣の部屋の中に向かって、廊下から話しかけていた。扉の鉄格子の間から、上杉は十歳ばかりになる幸を見た。その少女は大人の帽子に紐をつけたものを被っていて、顔を確認することはできなかった。それでも上杉はその子が幸だと声以外の理由からも断言できた。その帽子は今、大人になっても幸が被っているものであり、幸の何よりの宝物だった。
「幸、ここから出してくれ! お願いだ、こっちを向いてくれ!」
上杉が大声を出して幸を呼んでも、幸には聞こえないようだった。幸は廊下に座り込んで、扉の下のほうに開けられた食器口を覗き込んでいた。その後、幸はスカートのポケット探って何かをつかみ、それを部屋に入れた。
「咲きそうって、こんなふうに千切ったら枯れるだけだよ」
上杉は、隣の部屋から少年の冷たい声がするのを聞いた。それは六歳になった頃の自分の声だった。幸はそれを聞いてさびしそうにうつむいた。しばらく沈黙が続いた後、鼻をすする音がして、上杉は幸が泣いていたのだと、子供の時は知らず、今になって気づいた。
「どうしよう……」
幸がそう言った。上杉は自分より、幸のことを思うべきだと気づき、どうにか自分の中の不安を押しこらえた。
「枯れたらまた咲かせればいい……」
上杉は、子供時代の自分と声を合わせてそう言った。幸が喜び、笑っている。なぜか上杉も嬉しくなってきた。上杉はその時初めて、幸せというものを知ったことを思い出した。幸が教えてくれたのだ。
「すごい! さっき見たサーカスの人よりすごいよ!」
幸がそう言ったのに対して、少年の上杉はサーカスについて質問した。勉強はある程度させてもらえたが、サーカスという言葉を少年の上杉はまだ知らなかった。幸がその日、病院に来たサーカス団の話をして、少年の上杉も少し興味を持った。
「来年もまた来るよ、きっと。次は一緒に観られるように私が今から言ってきてあげるね!」
幸はそう言うと立ち上がって、走り出した。しかし、少し行ったところで振り返り、逆戻りをして上杉のいる部屋の前で止まった。上杉は膝をついて、扉の食器口を覗いた。そこには包帯で全身を覆われて痛々しい姿をした幸がいた。
「幸……」
上杉は手を外に出し、幸に触れようとした。するといきなり、幸のほうから中に包帯で巻かれた小さな手を伸ばしてきて、上杉の手首をつかんだ。
その手は血まみれだった……
「嘘だ!」
上杉はそう叫んだ。つかまれていないほうの手で目を擦り、もう一度幸の手を見ると、血は泥の汚れに変わっていた。幸はその手で上杉の手首を返し、もう片方の手を伸ばしてきて、上杉の手のひらの上に何かを置いた。それはきれいに咲いた桜の花だったが、上杉の手に触れた瞬間、花弁はすべて抜け落ち、焼けてもいないのに黒い灰になって消えた。
そして、桜の花だけではなく、その場にあるもの全てが一瞬にして消え去ってしまったのを上杉は見た。
都内の劇場が立ち並ぶ街で、サーカス団のポスターばかりが貼られた建物の中の廊下に上杉は立っていた。その時、ちょうど廊下の隅にある男女共用のトイレから、ハンカチで包帯の巻かれた手を拭きながら出てくる女性の姿があった。それは十九になった幸だった。幸は手を拭き終わると廊下を奥へと進み始めた。すれ違う人たちがみな、幸に笑顔で挨拶をした。上杉はその人たちのほとんどを覚えていた。同じ一団にいた人たちもその中に数名いた。上杉はその人たちを少し恨むようにして見た。団長が死んですぐに上杉がその一団を仕切り始めたが、幸以外、誰も上杉についてこようとする者はいなかったからだ。しかし、そこにいる者たちは幸を含め全員、上杉の恨みはおろか、存在自体を感じていないようだった。
幸はその後、『マジックサーカス』と書かれた札のついた楽屋に入った。その部屋には二人の人物がいて、十五になった上杉と、それから青年の上杉から「団長」と呼ばれている強面の老人だった。
上杉はその老人の姿を見て、思わず息を呑んだ。それは死んだはずの男だったからだ。ただ、やはりその老人も上杉の姿は見えていないようで、試しに上杉は震えた声で名前を呼んだが返事はなかった。
「枯れた花と同じ植物をすり潰して絞り出した液体を水に溶かし、その中にこの、枯れた花を入れて意識を注ぎ込めば……団長できたよ、やっぱりね」
青年の上杉が言った。その手には今まさに咲いた花が握られていた。その花はさっきまで枯れていたものだった。
「……よし、じゃあ休憩にしよう。さっちゃんも、一緒にお菓子食べようよ」
団長はそう言って幸を呼んだ。幸は元気よく返事をして、団長に抱きついた。団長が照れくさそうにしながら幸の頭を撫で、肩を優しく叩いた。その体の全身にはまだ、手と同様に包帯が巻かれていた。
「――太陽の光が皮膚に良くないみたいなんだ、戦争のせいもあるんだろうけど、元々弱かったんじゃないかな」
幸が病院から持ってきたお菓子を三人で食べている時、青年の上杉が団長に言った。
「でもお父さんは、私はきれいだって言ってたよ! お父さんが帰ってきたらまた言ってくれるよ、きっと」
幸の言葉に団長は頷き、幸がする父親の話をある程度聞きながら、幸の腕の包帯がほどけていたので、それを丁寧に巻き直した。
「この子は病院の中にいるのが一番なのかもしれない。外の世界で暮らせるようにさせてあげたいんだが……まぁ、いつだって幸が会いたくなれば、こちらから病院に行けばいいしなぁ……」
団長がそう言うと、幸は喜んだが、青年の上杉はわざとらしく嫌がって呻き声を上げた。
「僕は死んでもあそこにだけは戻りたくないね」
「お前、結局七歳の時に出たきりじゃないか。先生方にも会って、挨拶するべきだろうが」
「嫌だよ、あんな連中。僕に特別な力があるから、あいつら妬んで僕を監禁してたんだ。見た目なら化け物みたいのが他にたくさんいったってのに……」
「――どんな子がいたって?」
団長は怒って青年の上杉に詰め寄ってきた。しかし実際、青年の上杉が言う通り、あの病院には変わった病気、それも先天性の病を患った子供たちがたくさんいたのは事実であった。
「団長は探してたんだろう。サーカスの一員を。そのために毎年来てたんだ。どんな子がいたって? 団長が探していたような子だよ」
「だからどんな子だ? 言えないだろ? 言えるわけがない……」
団長は青年の上杉の胸倉につかみかかった。青年の上杉は全く動じた様子を見せなかった。団長は手を離して、後退りをし、そして、青年の上杉が笑っているのに気づいて、不気味さを感じていた。上杉もそんな自分の姿を見て、死んだはずの団長を見るよりも、もっと怖いものを自分自身から感じた。
「いいや、言えるさ……化け物、フリーク……」
上杉は怯えながら、青年の頃の自分と声を合わせてそう言った。その瞬間、部屋が停電したように真っ暗になり、物音もいっさいしなくなった。
暗闇の中で、ふいに電話の鳴る音が響いた。その後、幸の医者と名乗る者が、幸が病院に帰ってきていないと言っていた。
上杉はある池の前に立っていた。誰かが池の中で溺れていた。その手には水連の花が握られていた。上杉は、その光景に見覚えがあった。まもなくして、さっき見た青年の頃の上杉が現れて、迷うことなく池に飛び込んだ。
辺りがまた暗くなっていき、もう一度明るくなり始めると、今度は水が流れ落ちる音が聞こえた。病室のベッドの横に置かれた台の上に金魚鉢があって、団長がそこに小さなバケツから水を注いでいた。青年の上杉はそこに、さっき幸が握っていた水連の花を浮かべた。潰れて変形していたその花は、青年の上杉が睨みつけるように視線を送ると、少しずつ元通りになっていった。
「幸は夢を見てる……」
青年の上杉が、ベッドで眠っている幸の布団をかけ直しながら、そう言った。団長が、どうしてわかるのか訊いた。青年の上杉は鼻をすすり、自分でも気づいていないようだったが目には涙を浮かべていた。
「もう少し遅かったら死んでた。息が止まってたから、代わりにしてあげようと思って、幸に意識を注ぎ込もうとしたんだ。今は全くできそうにない。でも溺れてたあの時、幸の中に僕の意識が入ったのを感じた。あの時、幸の脳は機能してなかった。だから注ぎ込みができたんだ。ただすぐに押し返されたよ」
「どうしてだ?」
団長が青年の上杉に訊いた。その顔からは汗が噴き出していた。上杉は、団長が青年の自分を恐れているのに気がついた。
「息を吹き返して、意識は失ったままだったけど、幸は夢を見始めた。幸の夢が僕を追い出したんだ。それを僕は見たよ。はっきりとは思い出せないけど、たしか幸の父親が出てきて、それから、幸が楽しそうに遊んでいる……とにかくきれいな夢だった……」
それから、青年の上杉と団長は幸を病院から引き取る話を始めた。団長は幸を上杉のそばにいさせるほうが、病院にいるよりいいのではないか、というようなことを言った。そして、幸には曲芸や奇術を行う際の、簡単な助手になってもらえばいいという青年の上杉が出した案に、団長は賛成した。
「ところでどうして、幸が池にいるとわかった?」
団長がそう質問すると、青年の上杉は首を横に振って、自分でもわからないといった様子だったが、しばらくしてつぶやくようにこう答えた。
「虫の知らせ……」
上杉はまだこの時、自分が虫を操ることになるとは思っていなかった。虫に対して意識の注ぎ込みを行ったのはその後のことだった。でもそれは、幸が上杉と同じサーカス団の一員になってすぐに、舞台で観客に一芸として見せられるくらいのものになっていたことを、上杉は思い出した。
次に辺りが暗くなると、拍手と歓声が聞こえてきた。照明の光が小さな舞台の上に立つ青年の上杉を照らし出す。中年のほうの上杉はというと、観客の中にいて、周りの人と一緒にその奇術を観ていた。青年の上杉は蝶に円を描くように飛ばさせていた。それも何匹も同時に行っていた。上杉は、若い自分が無理をしているのが、記憶を頼らなくとも目で見てわかった。青年の上杉の足下には一匹の蝶が落ちていて、もがきながら死んでいった。その事に気づいたのはその場で、上杉だけだった。
「最後に、僕を支えてくれた助手を紹介しましょう」
舞台袖から幸が登場し、観客に向かってお辞儀をした後、嬉しそうに微笑んでみせた。包帯は全て外され、きれいな肌をした幸の姿がそこにあった。
上杉は目に溜まった涙を拭った。もうすぐあの黒いソファーに座っている幸も自分に微笑みかけてくれるはずだと信じ、上杉は何度も目を擦って、流れ落ちる前に涙を取り除いた。その後、上杉はまた視界が変わっていることに気づいた。
夕暮れ時、上杉は劇場の近くにある総合病院の入口にいて、青年の上杉と幸が受付で看護婦と話しているところを見ていた。その後、二人は歩き出して、ある病室に行き、ベッドの上で新聞を呼んでいる団長に挨拶をした。
「二人とも今日は本当にすまなかった。その顔なら、公演も無事に終わったようだな……さっちゃん、なにか果物を買ってきてくれるか?」
団長はそう言って、小銭を幸に渡した。幸はそれを嬉しそうに受け取り、部屋を出ようとした。青年の上杉がそれに同行しようとした時、団長は幸を呼び止めて、いらっしゃいなどと言った後、幸から自分が渡したばかりの小銭を受け取った。団長はそれを指の間で転がして、親指で上に弾き、それが落ちてきたのを両手でつかむと、小銭は真っ赤な林檎に変わっていた。
「林檎だ! すごい、団長もマジックできたんだね?」
「俺のは正真正銘の魔法だよ」
団長は幸にそう言って、林檎と小さなナイフを渡した。幸はベッドの端に座って、膝の上にさっき団長が読んでいた新聞を置き、その上で林檎の皮を一心不乱にむき始めた。
「お前が最初に俺を見つけたとか……」
団長が青年の上杉に言った。上杉はそれに頷いた。団長は、自宅のテレビのアンテナが曲がっていたので、それを直そうと、屋根に外から梯子をかけて上っていた時、屋根裏部屋に巣を作っていたハチに襲われて、数か所毒針で刺された後、頭から地面に転落し、入院することになったのだった。
「俺も幸もお前に命を救われた……」
「大袈裟だよ」
団長の言葉に青年の上杉はそう言い返して小さく笑った。でも団長は本気でそう思っているようだった。団長は、林檎の皮むきに夢中になっている幸のきれいな手を不思議そうに見つめた。
「この子に何をした?」
団長は幸を見ながら青年の上杉に訊いた。
「池の中でのこと? だから、僕にもわからないよ、助けるのに必死だったんだ。怪我を直そうなんて考えてる暇はなかった……」
青年の上杉の言葉に団長は納得していない様子だった。それから団長は自分の後頭部に手を当てた。痛くないと声に出さずに言って、団長は胸の前にその手を置き、反対の手でそれを強く握った。少し震えているようだった。その後しばらくして団長は改めて、青年の上杉に感謝していることを伝えた。
「――幸は、母親の実家にいる時に傷を負った。まだ三つそこらの時に。――あの、お前が生まれた施設だが、アメリカの援助があって成り立っている。だから、あそこ子供たちは研究対象にされている……」
団長が言う言葉に、青年の上杉は首を傾げた。上杉は病院にいた頃、アメリカ人に会ったことなどなかった。というより、上杉はほとんど監禁に近い状態にさせられていたのだ。面会していたのは一部の看護婦と幸くらいだった。
「それは僕もってこと? 研究されたことなんてないと思うけど」
「お前は……特別だから」
「なんだ、研究してくれればよかったのに、僕の力を見せつけることができた」
「ダメだ! お前はあまり目立つようなことをしてはいけない。マジックは単なるマジックのままでいい……」
「いいや団長、僕はそうは思わない。いつか、もっとすごいことをしてやる。僕にならできる。――いいから黙って聞けよ。僕は花咲か爺じゃないんだ! この世界を変えることだってできる!」
青年の上杉が音量は絞っていたが、強い口調でそう言うと団長は言葉を失った。その代わりずっと黙っていた幸が林檎をむき終わり、長く伸びた皮を二人に見せて大きな声で笑った。
「林檎は何等分にする?」
幸がそう言うと、団長と青年の上杉が同時に、幸の好きなようにとか、幸に任せるなどと言った。
「団長、その新聞に載ってる大統領が暗殺されたっていう事件もそうだよ。誰かが世界を変えようとしてる」
「……そんなのは間違っている。だってそうだろ? 誰かの命を奪って、それで世界が変わったとしても、良いほうにではない」
「じゃあもし、もとから死んでいたなら? 薬かなんかで、昏睡状態に陥った、そんな大統領だったのなら? 操れたかもしれない。そして、被害者として死なせることができた。それが世界を良いほうへと変えるということなのかどうかはわからないけど……」
「お前がやったのか?」
団長の言葉に青年の上杉は笑った。自分にはできるはずがないと言って。それを少し離れたところから見ていた中年の上杉は、笑うことができなかった。実際、上杉は幸を操ることに成功してしまったし、今やろうとしていることのほうがはるかに不可能なことだったからだ。
「お前がやったと公表する」
団長は青年の上杉に言った、青年の上杉はわけがわからない様子でそれを聞き返した。すると、今度は団長のほうが強い口調になってこう言った。
「――もし単なるマジックの範囲を越えれば、お前が大統領を操ったと公表してやる……」
「なんでそんなことする必要があるんだよ? 第一あんな遠くまで意識を飛ばせるわけがないだろ?」
「わからない、俺にはわからない。特別じゃないんでね……なぁ、幸に何をした? 俺に、何をしたんだ?」
団長はそう言って、目を閉じた。上杉はゆっくりと団長に近づいていった。そして、小さな声で団長に何度も謝った。
「助けてごめん……」
辺りの様子が変わって、上杉はまた自分が違う場所にいることに気づいた。古い墓地に、今より少し若い上杉と、きれいな大人の女性になった幸が喪服を着て立っていた。ちょうどその時、幸は隣にいる上杉を抱きしめた。幸は静かに泣いていた。
「そうじゃないって、幸。団長の家にハチはいなかった」
「どうしてわかるの?」
幸が目から大きな涙を流しながら言った。その声は初めに会った頃とほとんど変わっていなかった。少女のような、か弱い声だった。
「前の巣は今残っていたとしても空っぽなんだよ。あれは……団長の家にいたハチは、僕が全部殺した……幼虫やさなぎも成虫に運ばせて、一匹残らず池に沈めたんだ……」
「それじゃあ別のハチに刺されて死んじゃったの?」
「そうだよ……幸、いいから聞いてくれ。僕のそばにいれば何の心配も要らない。僕が幸を守る。だからいいだろ? いいに決まってる。ずっと一緒にいよう、ずっと……」
辺りがまた暗くなり始めた。そしてしばらくしても一向に明るくなる気配がなかった。ただ二人の声だけが止むことなく上杉の耳に入ってきた。それは幸と上杉が喧嘩をしている声だった。上杉は怒鳴り、幸は泣き叫んだ。
「幸、どうしてわからないんだ! 団長はもうずっと前に死んだ、なんでそういつまでも引きずってるんだよ? ――おい、まさかまた僕のせいだとか言い出さないだろうな? 何回言わせたら、気が済むんだ。俺は団長を殺してない! あれは事故だった。僕が有名になってきたから、マスコミが蒸し返してきて、今になってまた騒ぎ立ててるだけだ。誰も、僕が殺ったなんて思ってない。週刊誌に書かれてることを信じるのは馬鹿だけだ。第一、幸は字が読めないじゃないか!」
ほんの数年前に自分が言ったことなのに、上杉は耳を手で塞ぎ、その声を聞くことを拒んだ。それでも声は聞こえてきた。
「……いい加減にしろよ、母親の死はあっさり受け止めたくせに。この際、言っておくが幸、お前の父親は帰ってこないぞ。何を根拠に帰ってくると思ったのか知らないけど、とにかく院長から幸を預かる時に、父親の戦死公報を受け取ってるんだよ」
「嘘だ! お父さんは日本に帰ってきたよ! 私に会いに来てくれて、それで、私のこときれいだって言ってくれたよ!」
「それは幸の見た夢だ……どうして夢と現実の区別がつかないんだ? どうして毎年つぼみの桜を千切ってくるんだ? ほら、まただ、いつの間にかポケットに入ってる。――じゃあ、どうしてハチに二回刺されると命の危険があるのかわかるか? 団長はハチの毒に抵抗したから死んだんだ、言ってることわかるか? 幸にはわからないだろう。どうしてわからないかも、わからない……どうして? それはお前が知恵遅れだからだ……」
やっと辺りが明るくなってきた。上杉は小さな舞台の上に立っていた。そこは、上杉が育った病院にある舞台だった。そこは上杉が初めて、サーカスを見た場所でもあった。その舞台はスポットライトで眩しいくらいに照らされていて、座席のほうは対照的に真っ暗だった。座席に誰かいる気配を上杉は感じ、ゆっくりと前に進みでた。その時、マイクとスピーカーが繋がる音がして、上杉は驚いてその場に静止した。そのスピーカーからその後何回か、マイクを叩く音と、咳払いするのが聞こえて、上杉は誰かが話し始めるのだと気づいた。
「この男には非常に特別な力があります。例えばそうですね……ソ連の指導者の体を自由に操れたとしたら? スパイとしてではなく、買収をするわけでもない。この男がその人物の体を操るのです。まるで見えない糸で繋がれた人形のように。――それには一度、相手の頭を強打させる必要があるかもしれなませんが、なに、頭が禿げていなければその傷も目立つことはないでしょう、そう、そしてその後は意のまま、あなた方の国に優位なことをさせればいい。そんなことができるとしたら……おやおや、疑っていますね。それでは実際に、この場である一人の女性を操ってみせましょう。それは……この私なんですけどね」
舞台袖から、あの白い帽子を被った女性がゆっくりと歩いて登場し、舞台の中央で帽子を取って、深くお辞儀をした。お辞儀をし終わってその女性は上杉のほうを見た。上杉は、その幸の姿を見て叫び声を上げた。幸の顔は火傷によってただれていた。包帯は巻かれていなかったが、それでも出血をしている様子もない。血が通ってないようにも上杉には見えた。
「あなたには生まれて初めて見せる姿よね?」
幸がはっきりとした大人の口調で言った。上杉はその女性が幸であることを認めるのが嫌になってきた。吐き気がして、上杉は幸を傷つけるとわかってはいたものの我慢できずに目を逸らし、口に手を置いた。
「私、ずっとわかってた。何もかもわかってたし、どうしてわかるのかもわかってた。それでもあなたからは知恵遅れだと言われた」
「いいや幸、お前はわかってない」
上杉はその場に膝をついてそう言い返した。座席のほうを見ると暗い無数の影が蠢いていた。上杉にはそれが死神か、死者たちに見えた。そして、ただの虫の大群のように見えることもあった。
「僕は団長を殺してない……団長は屋根に上ろうとしたあの日、死ぬはずだった。それなのに助けてしまった……」
「そんなのわかってた。団長は自分からハチに刺されて死んだのよ……どうしてそんな顔をするの? わかってなかったのはあなたのほう……団長はあなたが有名になれば、疑いがかけられることを知っていたの。そしてあなたはその疑いから逃れるために、意識の注ぎ込みを単なるマジックにしておかなければいけなかった。団長はあなたを制御したかったのよ。どうしてかわかる? ……わからないでしょ? それはあなたを守るためだったのに……」
そこで蠢く影たちが一斉に拍手をした。何か雄叫びのようなものを上げている者もいるが、何と言っているのか上杉には聞き取れなかった。
「どうしてそんなことわかるんだ?」
上杉はそう訊いたが、答えは求めていなかった。わからないと言ってほしかったのだ。でも幸は迷うことなくこう言った。
「団長を愛していたから」
幸はそう言うと、帽子を被り直した。すると、なぜか一瞬の内に幸の顔の傷が癒えていた。でも上杉は嬉しくなかった。
「お前は僕を愛してたんだ……」
上杉は消えるような声でそう言った。座席から短いブーイングが起きた。
「私はあなたを愛したことなんてない。それはあなたが私を本気で愛していなかったのと同様に……」
「僕は愛していた! だからここに来たんじゃないか!」
「違う。あなたここに来る前にこう言ったの、覚えてる? 『私はまだ、完全に幸を操つれていないのです』って、あなたそう言った。私を完全な操り人形にするつもりだったんでしょ? 実際、ただの実験材料にしたじゃない。もし、余命の過ぎた人間を蘇生することができたら、あなたは単なる奇術師から、神のような存在に変わることができる。そうしたら、団長の疑いなんて、みんな大目に見てくれる。これから、多くの命を救っていくのだから……そう、僕は特別、僕は特別なんだ……」
幸は、僕が蝶を鼻に乗せた時と同じポーズを取って、顔も同じようにし、蠢く影たちにおどけてみせた。影たちは一斉に不気味な笑い声を出した。それがあまりにもうるさかったので、上杉は一か八かで、座席全体を睨みつけ、意識の一部をその影に向かって送った。意識が届いたところで、上杉はやはりその影が、死神でも、死者でもなく、単なる虫の大群だということに気がついた。
「自分の身を喰え……」
上杉がそう言う前に、すでに影たちは体をくの字に曲げたり、羽を足でむしり取ったりしながら、どうにか自分の体をかじり始めていた。その音は重なり合って増幅し、ガリガリか、シャリシャリというふうに上杉には聞こえた。幸は笑ってその光景を見渡した。でもすぐに飽きた様子で、上杉との会話を再開した。
「……団長も私もそんなこと望んでなかった。助けてほしいとは思ったけど、死から呼び戻してほしいだなんて……それに、私の体をきれいにしたのはなんで? それはあなたの目に私が醜く見えたからよ。団長はそうじゃなかった。包帯をいつも取り替えてくれた。そして、私の体に直接触れてくれた。――もちろん、団長は仮の父親として私に接しただけだけど、私はそれでも十分なくらいの愛を感じた。でも、あなたは私を愛してない。私はあなたに言われるまで、お父さんが帰ってきてくれると信じてた、本当に信じてたのよ! あなたのせいでこの世に留まる理由をなくし、生きる気力も失った。それなら何も知らずにあの時、池で死んでおけばよかった。それなのに……」
幸は、そこで話すのを止めて帽子を投げ捨てると、突然自分の腕に思いっきり噛んでそこの肉を引き千切り、そのままおいしそうに食べ始めた。上杉は言葉を失って、ただ茫然と血まみれになって笑っていながら自分の体にむさぼりついている幸の姿を見ていた。
「どうしてこんなことさせるの?」
幸が右腕を食べ終わって言った。その目には涙を浮かべていた、その後、当たり前のように反対の腕も食べ始めた。上杉は、自分のせいではないと言おうとしたがうまく声が出ず、ただ首を横に振ることしかできなかった。
「どうして、こんな姿になってまで私に死ぬことを許してくれないの? 許せない……私と同じ苦しみを味わってほしい。私は、そのためにこんな仕打ちにも耐えて、ここにいるのだから……」
幸がそれを言い終わると、舞台の照明が一気に消えた。後には影で虫たちが自分を食べる音しかしなくなった。その音の中に何か別のものが混じっているのに上杉は気づいたのは、舞台の天井からゆっくりと下りてきたスクリーンを見た時だ。虫の音に混じって聞こえるのは映写機の音だった。スクリーンが下がるにしたがって、白黒の古い映像が少しずつ見えてきた。上杉はそこに二人の夫婦の姿を見た。上杉にはその二人が誰かわからなかったが、その妻のほうが抱きかかえている赤ん坊の顔を見た時、今自分が見ている夫婦は紛れもなく父親と母親であることを悟った。
上杉は初めて見る両親の姿に感動し、涙を流した。音はしないが、その映像の中の二人は楽しそうに何か話をしていた。そんな中、上杉の赤ん坊がふいに泣き出した。両親はそれに対し異常に焦った様子だった。そして、上杉の母親は何を思ったか、その泣き喚く赤ん坊を地面に置いて、その場から逃げるように走り出した。父親も同様に走り出し、何度か振り返ったその顔には、我が子への恐怖に満ちていた。カメラもその二人を追って、映像から赤ん坊は消えた。
その夫婦はあるところでほぼ同時に転んだ。特に躓くようなものはなかった。そして一向に立ちあがろうとしなかった。地面で悶え苦しみながら、口から泡状の血を吐いて、息絶えた。その後、カメラは倒れたようで、地面に落ち、その反動で後ろを向いた。そこには遠くで泣き続けている赤ん坊の姿があった。映像はそこで終わった。
また暗闇が訪れた。上杉が知らない内に虫たちの音は消えていた。
「ちょっと喜劇的だけど、ちゃんとした事実だからね。そう、あなたが両親を殺した……」
スポットライトが幸を照らした。幸は腕を食べる前のきれいな姿に戻っていた。
「何もかもあなたのせい。何もかも、あなたは間違っている。あなたが監禁させられていたのは、別に特別扱いしたかったからじゃない。ただ単に危険だったからよ。団長があんなに早くあなたを引き取ったのは、どっかの国にあなたが悪用されないようにするため。あなたは自分が特別だからスカウトされたと思ってる。でも全く違う、団長はあなたに普通の人生を送ってほしかったのよ。団長があの病院であなたが言うような化け物を探していたのは事実かもね。でもその人たちの居場所を作って、普通の暮らしをさせることが団長の務めだったのよ。あなたはそのためにあった一団を解散させてしまった。自分の一番の理解者だった団長の気持ちを裏切って。団長はね、私と同じくらい、あなたのことも愛してたんだから……」
上杉は幸の言葉に絶望しながら、なぜか、初めてサーカスを観た時のことを思い出していた。動物使いや、口から火を噴いたり、剣を喉の奥に入れたりする人、細いロープの上で一輪車に乗ってジャグリングをする人、そして言葉で観客を楽しませる司会者……団長が司会者だった。上杉は自分が一団のメンバーに加わり、初めて舞台に上がった時、団長が自分を紹介するために言った言葉を口に出してつぶやいた。
「花咲か小僧……どうか温かい目で見てやって下さい……」
上杉は胸のポケットから、幸が最後にくれた桜のつぼみを取り出した。
「僕は花咲か爺、まだまだ未熟なマジシャンですが、どうか温かい目で見守って下さい……失敗もあるかもしれません。満足していただけないかも。それでも僕は咲かせましょう。枯れた花でもいい。枯れたらまた咲かせればいい……」
そう言って、上杉はつぼみに意識を注ぎ込んだが、やはりその花だけは咲く気配がなかった。
「枯れたまま生き続けてる……まるであなたみたいね」
幸が冷たくそう言うと、上杉は声を上げて泣いた。子供のように天を見上げて、上杉は何度も謝りながら泣き続けた。幸がそんな上杉に近づいて、手を差し伸べた。
「やっとわかった? わかったんなら、私のこと解放してくれるよね? それと……あなたに助けてほしい人がいるの。もしその子を救うことができたら許してあげる。その花も私が咲かせてあげる……」
上杉は幸の手を借りて、泣いたまま立ち上がり、大きく頷いた。その後に上杉が幸のほうを見ると、もうそこには誰もいなくて、握っていたはずの手には幸の宝物の白い帽子があった。反対の手には今まで見たどの花よりきれいに咲いた桜の花があった。その後、どこからか幸が笑っている声が聞こえてきた。
「もうすぐ始まるから……助けるって意味わかってるよね? とにかく、花は咲いた。その花が散ったら私たちまた会えるかもしれないね。そんな日が来るとは思えないけど……ほら、プロペラの音が聞こえるでしょ……」
上杉はどこか古い街に立っていた。道の向こうから一人の小さな女の子が風に飛ぶ帽子を追いかけて、上杉のほうへ走ってくる。上杉にはその風は感じなかった。それからその後の爆風も、上杉が目で見て、耳で聞き、感じはしたものの、体に直接なにかあるというわけではなかった。
空にキノコの形をした煙が上がっている。さっきまで上杉の目の前にあった街が消し飛んでいた。上杉は呆気にとられながら、急いでさっき帽子を追いかけていた子供を探した。その子はすぐ近くに倒れていて、体中に火傷を負っていた。上杉はその子の痛々しげな顔に手を置いた。その子は上杉に触れられた瞬間、失っていた意識を取り戻して、目を閉じたまま泣き出した。上杉は手のひらで優しくその子の頭を撫でた。すると、その子は痛みが和らいだのか、少し静かになって、怯えきってはいたが、落ち着いた様子で母親を呼び始めた。
「大丈夫、もう平気だから、幸……」
上杉は幸を抱きかかえようとしたが、何度試しても体が幸をすり抜けた。ただ触れたり、手を握ったりすることしか許されていないようだった。
「お母さん? お母さんは?」
幸が悲しそうに上杉に訊いた。上杉はわからないと言って、幸に謝った。上杉はこれ以上どうすればいいのかわからなかった。
「……お父さん? お父さんなの?」
幸が上杉に向かって訊いた。上杉はそれで何かを悟ったように、迷わず頷きながら返事をした。
「そうだよ、ただいま幸。覚えてる?」
「覚えてるよ、お父さん。目がよく見えない、何があったの?」
「戦争が終わったんだ。また少し離れることになるけど、必ず帰ってくるから。幸、お父さんのこと待っててくれるかい?」
「うん、待ってるよ、ずっと待ってる……」
上杉は幸を抱き寄せた。幸の体はすり抜けず、上杉の腕の中にあった。でもいつまたすり抜けるか心配になった上杉は、どこかもっと安全な場所に運んでやりたいという気持ちを抑えて、その場にもう一度、幸を寝かせた。
「目がまだチカチカする」
幸は何度も瞬きをしながらそう言った。上杉はそばに置いておいたあの白い帽子を、幸の胸の上に置いた。
「大丈夫、お父さんにはちゃんと見えてるから。――幸、とてもきれいだよ……」
――東京のある体育館が急遽、避難所になり、場所も家から近いということで上杉はそこへ行くことにした。動きやすいラフな服装をして、紙袋と長年愛用している杖を持ち、上杉は電車に乗って目的地を目指した。上杉は車内で金髪の若者に乱暴な口調で話しかけられ、怖がってしまったが、どうやらその若者は席を譲りたかっただけのようで、どこか申しわけないような気持ちになった。
上杉はすっかり年老いて、今年六十五歳になろうとしていた。周りにはそのくらいの歳になっても働いているような人がいるのだが、上杉はその人たちより数倍老けていた。若い頃ちゃんと働いていたおかげで生活にも苦労していないし、子供もいない上杉にこれ以上働く理由はない。上杉がすることと言えば、食べることと寝ること、それから、どこかの施設などでボランティア活動を行うことだった。
「枯れた花は、この花咲か爺によって再び咲き乱れます……」
避難所の前で子供たちを相手にマジックを行っても、上杉はあまり嬉しい気持ちにはなれなかった。上杉が何かするたびに、子供たちは笑って拍手をしてくれる。でもその目の中に幸せはなかった。上杉は子供たちに気を遣われていたことにがっかりしながら、学校の屋上で一人、役員の人からもらったお茶を錆びたベンチ座って飲んでいた。
「幸、僕はやはり無力な人間のようだ……」
上杉はそう言いながら、ズボンのポケットを探り、きれいに咲いた桜の花を取り出した。上杉はその花弁を指でつまんで、引き抜こうとしたが、どんなに力を込めても、花弁はびくともしなかった。上杉は怒って、花を地面に放り、その上から靴で何度も踏みつけた。でも数秒の内に上杉は息を切らしてベンチに戻った。桜の花は何の変化もなく咲いたままだった。
「あと何年咲いているつもりなんだ? 僕はあと何年、枯れたまま生き続けなきゃいけないんだ……」
上杉はそのようなことを繰り返しつぶやきながら、ベンチの上で体を丸めていた。
「――これ、お爺さんの?」
いつの間にか上杉の前に一人の少女が立っていて、上杉にあの桜の花を渡そうとしていた。上杉はそれを受取って、少女に礼を言った。
「もしよかったら君、この花もらってくれないか?」
上杉は花を少女に差し出して言った。自分の運命をこの見ず知らずの女の子に託してもいいと上杉は思ったのだ。少女は笑いながら首を横に振った。そして、その子は笑ったまま、上杉から離れていった。最後に少女はこう上杉に言い残していった。
「枯れたってまた咲かせるんでしょ? そうやって咲き続けてもね、本当はもう……とっくに死んでるんだよ」