あ、もらしちゃった。おむつの替えがもうないのに。
ふぅ……。
わたしは身を委ねた。その不織布の優しさに。安心感に。
おむつ。おそらく赤ん坊や老人など排泄の我慢が効かない人が使う下着。というか下着の姿をしたトイレのようなもの。
一般的な成人で、それも健康体な若者でそれを使う人はきっとごく限られているのだろう。ましてやわたしみたいに、職場でも構わず臆面もなく黄色い液体を解き放っている人などそう多くはあるまい。
条件付きの逆トイレトレーニングとでも言おうか。いつの間にかおむつをはいているときだけおしっこの弁が簡単に緩む体質になってしまった若者なんて、現実ではそう簡単にお目にかかれるものじゃない。
わたしはそれで困ったことなどほぼなかった。いまのいままでは。
おしっこを出して……いや、おしっこが出て、しばらく経ってから気付いた。
「……あ」
自分が漏らしていることに、ではない。今回は気付けた。だからこそその事実もわかってしまったのだ。
——替えのおむつ、持ってきてない!
終業時刻はまもなくだった。けど。
(もうたぷたぷじゃん……)
最近のおむつは性能がいい。だから、一度や二度のおもらしじゃ肌に触れる感触はあまり変わらない。すこし中の空気がじめっとする程度で肌に触れる不織布はさらさらなので、出したことすら忘れてしまう。
(でも外から触るとわかるんだよなぁ……。結構ぱんぱんじゃん)
いくら高吸収で横漏れしにくい構造を備えたおむつであっても、中のポリマーが吸える量には限りがある。
——あと一回出したら、溢れちゃう。
青ざめたとき、時計の針は終業時刻を告げた。
急いで机の片付けをして、ひったくるように鞄を取り、忘れ物がないことを軽く確かめ「お疲れ様ですっ!」と怒鳴るような勢いで言いはなって出口のエレベーターに飛び込んだわたしは、些か不自然にも見えただろう。
けど、それも仕方ないことなのだ。——尊厳の完全崩壊が、もうすぐそこに迫っていたのだから。
(やばいやばいやばいやばい……)
心の中で唱えながら、職場近くのショッピングセンターに入る。
なにをするためか。おむつを買うためである。
もちろん大きなパックは買えない。持ち帰るのが大変だし、なにより職場の人に見られるのは嫌だ。会社でまで変態扱いされたくない。だから、一枚か二枚だけが入った小さなお試しパックで急場をしのぐ。
荒く呼吸をして介護用品コーナーに向かうわたしは、たぶん不審者や変質者そのものだ。けど、もはや外聞など構ってはいられなかった。
ただこの「不快」と「危機感」をどうにかしたい。そのためだけに、わたしは介護用品コーナーに足を運んだ。
すこし歩くと、それは見つかった。
「あった……おむつ……」
大人用おむつコーナー。並ぶ色とりどりのパッケージをさらっと凝視し、お目当てのものがあるはずの棚を見つけて——息を呑んだ。
——ない。
探してた一枚入りのやつが、ない。
半ばパニックのような状態だった。かたかたと震え、息も絶え絶えになる。
どこ? どこ、なの……? おむつ……替えの……。
不安。そして恐怖。冷や汗が背中を伝い、おむつの背中のほうを濡らす。
落ち着け。……深呼吸、して……もう一度、冷静に……。
ゆっくり周りを見渡し……目を見開いた。
あった。別のところに、あった。
壁のラックにかけられていたそれに飛び付いて、わたしは自分の必要とするものを探す。四回吸収以上で、Mサイズ……あった!
五回吸収。赤いパッケージ。一枚入り。サイズも合ってる。
「あは……は……はぁ……」
口角が上がる。過呼吸が、少しずつ安定していく。やった。あった。これで、おむつを替えられる。またおもらしできる……!
深呼吸して、それをとって……目が、とろんとした。
じゅいい、と音がした気がして、力が抜けて……「ぁ……らめぇ!」
もうすでに遅かった。
うれしょんというやつだろうか。安心感で、おしっこの弁が切れたらしい。
(うそ……尿意はなかったのにぃ……ぁあ……)
スカートが湿っていく感じがした。そして太ももを伝って、ストッキングの代わりに履いていたニーハイソックスまでも。
(ぁ……あぅ……だ……ぁ……)
脱力感でへなっとして頭が幼児退行しながら、わたしは立ち尽くしたままおむつを限界まで濡らしていった。
*
はぁ……。
多目的トイレ。ビリッビリッと横の部分を破ると、薄黄色に濡れそぼった分厚い吸収体が姿を現した。
……四回か五回吸収レベルのパンツタイプだと、普通の大人のおしっこ量なら二回くらいが限度なんだよなぁ。
もっとも、さらに薄い二回吸収のやつは安いのはいいものの一回分すら吸わないので、単体で使うことを想定するならそのくらいの吸収量が必要なのだ。愚痴を言っても仕方ない。
帰りにパッドも買い足しとこ。あと、給料入ったらテープおむつも買うか。専用のパッドもセットで。すこし値は張るけど、パンツのより漏れにくいし。
うんちはなかったのでおしりや股間の辺りの水分をトイレットペーパーで軽く拭ってから、さっき買ったおむつを開封する。
装着も手慣れたものだ。普通のパンツのように穿いて、それから漏れないように軽く足を開いて股のところから指を入れてギャザーを整える。外からも感触を確かめるようにすこし形を整えて、最後に軽くおしりをぽんぽんっと叩けばおしまい。
背筋を伸ばして、すこし湿り気のあるスカートを穿き直す。……暗い色だから、目立たないと思うんだけどなぁ。帰ったら洗濯に出さなきゃ。
ストッキングは……いいや。スカートとは違って結構濡れちゃったし、あともう職場じゃないし。
生足で靴を履くのはなんだか違和感があるけど、濡れた布が身体に触れるほうがきついし。なんとか床にまでは被害を出さずに守りきってくれたのだ。休ませてあげよう。
濡れたおむつを丸めてサニタリーボックスに捨てる。あとストッキングはコンビニ袋に入れてカバンに。
軽く服のシワを整えて、肩甲骨を回して、息をついて、おむつの中があったかくなって。
よし。行こう。……あれ?
股間の穴から液体が放出される感覚——「出てる」感覚を、一足遅れて感じた。
…………あ゛っ。
あわててスカートの上から股間を触ると、限界とまではいかないけど確かに水分を吸収したおむつ特有の感触。
……わすれてた。おむつだとおもらししちゃうんだ、わたし。
青ざめて「……んっ」出しきって、気持ちよさに身体が震えた。
(やっちゃったぁ……っ)
——ラウンド2、開始。
ラウンド2
おむつだったからいけないんだ。今日はおむつはあきらめて普通の布のぱんつにしよう。
そう心に決めて、ショッピングセンターの上の階層に上がる。
スカートの中はまだ濡れたおむつのまんまだ。まだあと一回か二回くらいなら吸える。
……そう考えてるからダメなんだろうな。家に帰るまでにまたぱんぱんにしちゃいそうだし。
さっきみたいに事故るのも嫌なので、これ以上のおもらしを防ぐために布のぱんつにするわけなのだ。
普通のぱんつなら、おもらししないはず。たぶん。きっと。おそらく。メイビー。
エスカレーターでたどり着いた二階。女性下着売場。わたしは顔をしかめた。
……どれもあんまりかわいくない。あと高い。
薄いし、つるつるした生地だし、レースが飾ってあるし。
大人っぽいと言えばそうなのかもしれないが、わたしにはおばさんくさく見えてしまった。
あと、ブラジャーがセットなのもいただけない。いや、それ自体はいいのだけれど、わたしは上の下着にはだいぶこだわるほうなのだ。
まずノンワイヤーかつ肌触りがよく締め付けもそこまできつくないのじゃないとすぐに痛くなるし、そもそもサイズも覚えきれていない。アルファベットと数字の組み合わせで言われてもわからない。だから、普段は専門店で計ってもらって提案された中から気に入ったもの以外は買わないことにしている。
わたしがいま買いに来ているのはショーツであってブラではない。そういうことだ。
……どーしよ。
いまここで買ってもいいにはいいのだけど、すごく腑に落ちない。軽くため息をついて——天啓が舞い降りた。
賭けではある。恥もかく。けど……これは、しかたないことなんだ。
自分に言い訳をしつつ、心臓を高鳴らせながら、わたしはエスカレーターでさらに上の階層に向かった。
子供服売り場を軽く見つつ、今日の目的はそれではないのでスルー。たどり着いたのは——。
(来ちゃったよ……子供下着コーナー……)
淡い色が踊る小さな布がいくつも並んだ売り場。
そうだ。わたしが好きな「かわいさ」はこういうものなんだ。
いまはじめて理解したその真理を噛み締めるように、わたしは唾を呑んだ。
……あるかな、わたしが使えるサイズの女児ぱんつ。
結論を言おう。
「あるんだ……」
身長が150センチ台半ばのわたしでも普通に入りそうなものは普通に売っていた。
150と書かれたサイズのぱんつが、普段使っているMサイズの大人用おむつと同じくらいのウエスト。
(マジで使えそうじゃん……しかも)
感嘆しつつ手に取ったそれは、白とピンクを基調としたゆめかわいい感じのパステルカラーなグラデーション。そして、くしゃっとしたシルエットの柔らかい素材。材質を見ると、綿100%としか書かれていない。
下着の肌触りの良さは、わたしにとってなによりも重視すべき点である。チクチクするのは論外だし、かための生地だと全然落ち着かない。だからデザインを二の次にしても綿100とかの柔らかい生地が一番好きなのである。
……おむつじゃない日の普段使いぱんつ、こういうのでいいかも。かわいいし。
二枚組のそれを握りしめ、レジに向かおうとしたその時。
足に何かがぶつかった。
……子供だ。三歳くらいの。走っていたのかな。
「大丈夫? 立てる? 痛くな……」
手を差しのべようとしたときにはもう立ち上がっていて、気がつくともう走り去っていた。
あとからお母さんらしき人がそれを追いかけるように走ってくる。わたしと目が合うがいなやごめんなさいと言うかのように大きめのお辞儀をしてまた子供を追いかけていった。
なにをそんなに急いでいたんだろう。振り返ってみると、わたしにぶつかった子供は母親に何かを聞かれたようで。
その子供はやたらと通る高い声で、元気よく答えたのが聞こえた。
「おトイレ!」
その瞬間、股間がキュンとした。
——あの子、もうトイレトレーニング終わってるんだ。それで、いまもトイレに走っていっている。きちんとおしっこを我慢して。
それに引き換え、わたしはどうだ。もういい大人なのに……いまも我慢できずに、おむつを濡らしてぇ……っ。
流石に顔には出さない。けど、少しだけ口角が上がってしまったのは許してほしい。
(おとななのにぃ……おむつのとれない……あかちゃんでぇ……っ……ごめんなひゃぁい……っ)
「んぅあ……っ」
またおむつの中が温かく濡れていくのを感じながら、わたしはゆっくりレジまで向かった。
そのあとは普通におむつを脱いできちんと拭いてからぱんつを穿いて終わりだったのだが。
「あ゛っ」
家に帰ってトイレに入ったとき、新品だったはずのぱんつに黄色いシミがついていて、わたしは額をおさえた。
しまった。おもらししすぎて尿道がバカになっちゃったみたいだ。しばらくはおむつじゃない日でもパッドつけなきゃ……たぶん事故る……。
これから軽いトイレトレーニングみたいなことをしなければならない憂鬱感に大きなため息をつき。
「……でも、こんなにおしっこ我慢できない赤ちゃんは、おむつしなきゃだよね……っ」
言いながらぱんつを足から引き抜いて、用意していた新しいおむつに足を通した。
Fin.
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