第八章 拡散
スマートフォンの画面は、指紋で曇っていた。
アカウント名は《透明な目》。フォロワー数は、まだ三桁に満たない。だが、彼――あるいは彼女にとって、その数字は重要ではなかった。重要なのは、誰にも止められずに言葉を吐き出せる場所があるという事実だけだった。
《光輪会の裏側を知っている》
最初の投稿は、それだけだった。証拠も、説明もない。だが、数分後には「いいね」と嘲笑が同時についた。
《また宗教叩きか》 《売名乙》 《証拠出せ》
透明な目は、画面を見つめながら笑った。予想通りだ。信じられることより、叩けることの方が、この場所では価値を持つ。
二つ目の投稿で、状況は変わった。
《隔離棟。夜中に叫び声がする。戻ってこない人がいる》
添付されたのは、暗い動画だった。ピントは合っていないが、確かに人影が映っている。再生数が、ゆっくりと、しかし確実に伸びていく。
匿名掲示板に転載され、切り取られ、煽り文句が付け足される。
《ガチ闇》 《これヤバくね?》
透明な目は、端末を置き、深く息を吐いた。怖くないわけがない。だが、怖さよりも、黙っていた時間の長さが、指を動かさせていた。
彼(彼女)は、元信者だった。
救済を信じ、献金をし、家族との関係を断たされた。疑問を口にした夜、別室に連れて行かれ、何時間も“指導”を受けた。暴力はなかった。ただ、逃げ道を一つずつ塞がれただけだ。
《声を上げなければ、なかったことになる》
三つ目の投稿には、そう書いた。
数時間後、DMが届き始めた。
《詳しく》 《取材させてほしい》 《金になる話だ》
最後の一文に、透明な目は一瞬、手を止めた。金。価値。結局はそこか。
同時に、別のDMも届く。
《やめとけ》 《お前、分かってない》 《身元割れてるぞ》
心臓が跳ねた。画面に映る自分の投稿が、急に遠く感じられる。
その夜、フォロワーは一気に増えた。トレンド入り。動画は拡散され、真偽不明の情報が雪だるま式に付け足される。
《次はこれだ》
誰かが、別の宗教団体の映像を貼り付ける。
《全部同じ》
雑音の中で、透明な目の声は薄まっていった。告発は、いつの間にか娯楽になっていた。
翌日、アカウントは凍結された。
理由は「コミュニティガイドライン違反」。異議申し立てのボタンはあったが、返事は来ない。
スマートフォンを握りしめたまま、透明な目は床に座り込んだ。投稿は消え、動画も見られない。まるで、最初から存在しなかったかのように。
数日後、ネットニュースが小さく報じた。
《宗教団体への虚偽告発、SNSで拡散》
虚偽。誰がそう決めたのか。
透明な目は、画面を閉じた。代わりに、別のアカウントを作る指が動き出す。恐怖は消えない。だが、沈黙はもっと耐え難い。
この場所では、真実は守られない。消費され、飽きられ、消される。
それでも、誰かが言葉を投げ続ける限り、完全には消えないと信じて――。
その指先は、再び震えながらも、画面を叩いていた。




