第六章 黙認
警視庁庁舎の地下は、地上よりも空気が重かった。
換気の悪さだけではない。ここには、表に出せない情報と、出さないと決めた事実が堆積している。組織犯罪対策部の一室で、鷲尾は紙コップの安いコーヒーを啜りながら、古びたファイルをめくっていた。
「光輪会、また不問ですか」
部下の刑事が、吐き捨てるように言う。
鷲尾は答えなかった。答えは分かりきっている。不問ではない。“触れない”だけだ。
献金疑惑、土地転がし、脱税まがいの資金移動。どれもグレーではあるが、立件に踏み切るには、必ずどこかで証拠が消える。内部告発者は現れ、そして黙る。時には、家族ごと地方に消える。
「上からですか」
「上からだ」
その“上”がどこか、誰も口にしない。警察庁か、官邸か、あるいはもっと曖昧な圧力か。重要なのは、命令ではなく空気だった。やるなと言われなくても、やらないと分かる空気。
鷲尾はファイルを閉じ、別の資料を引き寄せた。黒崎組。こちらは分かりやすい。暴力、覚醒剤、賭博。だが、肝心なところで必ず線が引かれる。
「抗争、死人一人。なのに、捜査本部は立たず……」
部下が唇を噛む。
鷲尾は苦笑した。「数字が合わないんだ」
死人は一人。だが、その裏で、どれだけの金と票が動いたか。警察は治安を守る組織だが、同時に“安定”も守らされる。荒れないなら、多少の汚れは見逃される。
机の引き出しから、鷲尾は古い写真を取り出した。宗教施設の前で撮られた一枚。そこには、若い宗一が写っている。無垢な顔だが、目の奥に、妙な冷静さがあった。
「この子、将来は厄介になる」
誰かが昔、そう言ったのを思い出す。
その夜、鷲尾は非公式の飲み会に呼ばれた。相手は警察OBで、今は民間の危機管理会社にいる男だ。店は場末、だが個室。
「深入りするな」
男は酒を注ぎながら言った。
「宗教も、暴力団も、今はバランスが取れてる。崩したら、誰が後始末をする?」
「犯罪ですよ」
鷲尾が言うと、男は笑った。
「犯罪じゃない。政治だ」
その言葉は、妙に説得力を持っていた。
帰り道、鷲尾は吐いた。酒のせいではない。自分もまた、その“政治”の一部であることを自覚してしまったからだ。
警察は正義の味方ではない。秩序の管理者だ。その秩序が腐っていても、機能している限り、見て見ぬふりをする。
鷲尾は知っていた。いつか、この均衡は崩れる。そのとき、真っ先に切られるのは、汚れ仕事をしてきた末端だ。
そして、その引き金が、同じ顔をした二人の男になるかもしれないという予感が、胸の奥に、黒い染みのように広がっていた。




