第五章 欲の形
夜の光輪会施設は、昼間とはまるで別の顔を持っていた。
外灯に照らされた白い壁は、どこか冷たく、無機質に見える。宗一は宿舎の自室で、与えられた聖典を開いたまま、文字を追うことができずにいた。紙の匂い。整いすぎた文章。そこに書かれているのは「救済」や「愛」だったが、彼の脳裏に浮かぶのは、昼間に耳にした幹部たちの会話だった。
――献金が落ちている地方は、指導を強めろ。 ――離脱者が出た家族は、周囲から孤立させろ。
それは教義ではなく、戦略だった。
宗一は、ふと窓の外を見た。闇の中、施設の裏手にある古い宿舎棟。問題を起こした信者や、精神的に不安定と判断された者が“保護”という名目で隔離される場所だ。誰も詳しい中の様子を語らない。
数日前、若い女性信者が突然姿を消した。
理由は「浄化のための長期修養」。だが、宗一は彼女の目を覚えていた。救いを求める目ではない。何かを拒絶しながら、口を閉ざす人間の目だった。
そのとき、ドアをノックする音がした。
「宗一様」
幹部の一人が、低い声で名を呼ぶ。
「教祖がお呼びです」
応接室に入ると、父は一人で酒を飲んでいた。信者の前では決して見せない姿だ。グラスを揺らしながら、宗一を値踏みするように見る。
「怖いか?」
唐突な問いだった。
宗一は言葉を選んだ。「……何がでしょう」
「人の欲だ」
父は鼻で笑った。
「信仰なんてものは、欲を制御するための道具にすぎん。金、承認、支配……人間は、何かを与えられなければ従わない」
宗一は、初めてはっきりと知った。父が守っているのは信仰ではない。組織だ。
一方その頃。
黒崎組の事務所では、別の“欲”がむき出しになっていた。
違法賭博場の裏部屋。裸電球の下で、若い組員が縛られていた。金を抜いた。それだけで、理由としては十分だった。
「どこに隠した」
答えは返らない。
拳、蹴り、そして刃物。流れる血を見て、誰かが笑った。恐怖と興奮が混じった笑いだ。少年――黒崎の養子は、その場に立たされていた。
「目を逸らすな」
組長の声は静かだった。
「欲に負けた結果だ。こうなる」
少年は、血に濡れた床を見つめながら理解する。この世界では、欲は隠すものではない。むしろ、誇示するものだ。奪い、支配し、従わせる。その快感を、誰も否定しない。
拷問が終わった後、組長は少年の肩に手を置いた。
「お前は違う」
その言葉が、祝福なのか呪いなのか、少年にはまだ分からなかった。
宗一は、父の部屋を出た後、吐き気を覚えた。黒崎の養子は、血の匂いが染みついた服のまま、眠れずにいた。
二人は、それぞれの世界で、同じ事実に触れ始めていた。
――人間は、信仰や掟がなければ、際限なく欲に溺れる。
そして恐ろしいのは、その欲を“正しい”と呼ぶ理屈が、どこにでも用意されているということだった。




