第四章 兆し
光輪会の朝は、常に同じ音から始まった。
低く抑えられた鐘の音。拡声器越しの柔らかすぎる声。施設全体を包む、作られた静謐。その中で育った宗一は、その秩序に疑問を抱くことを許されていなかった。疑問は迷いであり、迷いは信仰の欠如と同義だった。
礼拝堂の最前列。宗一は年齢に似つかわしくない落ち着きで正座し、教祖である父の背中を見つめていた。白い法衣は汚れ一つなく、信者たちの視線はその背に吸い寄せられている。誰もが、そこに「正しさ」を見ていた。
だが宗一は、違うものを感じ取っていた。
父の声がわずかに低くなる瞬間。語尾を曖昧に濁すときの癖。祈りの言葉の裏に潜む、計算と警戒。それは信仰というより、統治の技術に近かった。
講話が終わると、幹部たちが控室に集まる。献金額、信者数、地方支部のトラブル。宗一は黙ってそれを聞く役割を与えられていた。子どもでありながら、すでに“内部の人間”だった。
「数字は嘘をつかない」
幹部の一人が言う。その目は、救済ではなく維持を見ていた。信仰が減れば組織は弱る。弱れば、食い物にされる。その論理は露骨で、だが誰も否定しなかった。
一方、同じ時間。
黒崎組の事務所では、怒号が飛び交っていた。
灰皿は満杯、床には空き缶。湿った空気に、汗と血の匂いが混じる。黒崎組長の前に正座させられた男が、何度も頭を下げていた。
「すみませんでした、組長……」
言葉が終わる前に、拳が飛ぶ。音は鈍く、容赦がない。誰も止めない。それが秩序だった。
黒崎の養子、幼いながらもその場に立たされていた少年は、瞬き一つせずにそれを見ていた。泣くことも、顔を背けることも許されない。ここでは、弱さは即座に値踏みされる。
組長は、殴られて倒れた男から視線を外し、少年に向き直った。
「見たか」
少年は短く頷いた。
「これが約束を破るってことだ」
善悪の説明はなかった。ただ結果だけが提示される。それが、この世界の教育だった。
少年は理解した。ここでは、信じるものは人ではない。力と恐怖だけだ。
宗一が“正しさ”を刷り込まれる一方で、黒崎の養子は“現実”を叩き込まれていた。
だが、奇妙なことに、二人とも同じ感覚を抱き始めていた。
宗一は、礼拝堂の静けさの中で、息苦しさを覚えることが増えていった。笑顔の裏に隠された欲。救済を口実にした支配。人は信仰の名の下で、ここまで他人を管理できるのかと。
少年は、暴力の渦中で、時折、説明のつかない嫌悪を感じた。殴る側の快感、見て見ぬふりをする周囲の卑屈さ。そのすべてが、あまりに人間的で、醜かった。
同じ血を持つ二人は、別々の世界で、同じ問いに直面していた。
――人は、どこまで汚くなれるのか。
その問いは、まだ言葉にならないまま、静かに、しかし確実に彼らの内部で育ち始めていた。




