第二十九章 選択
残された側は、真実を知っていた。
少なくとも、知っていると信じていた。違いは、ここで決定的になる。
黒崎は、港の事務所で夜を迎えた。事故、実名、失踪。順序は整っている。整いすぎている。整いすぎた順序は、誰かが並べた証拠だ。彼は、並べた者の顔を思い浮かべなかった。顔を想像した瞬間、選択が遅れるからだ。
真実は、軽い。暴けば済む。出せば動く。だが、動いた先にあるのは、回収不能の混乱だ。宗教は割れ、警察は責任を押し付け、裏社会は帳尻を合わせる。生き残るのは、嘘の上手い者だけになる。
彼は、別の選択肢を取った。
電話を一本、かけた。相手は、名前を出さない。出さないことで、成立する関係だ。
——「空白を埋める」
——「埋める?」
——「固定する」
やることは、三つ。第一に、記録を揃える。過去の写真、会合、音声。矛盾は消さない。同じ矛盾を、同じ場所に置く。第二に、証言を減らす。否定ではなく、疲弊させる。第三に、物語を短くする。短い物語は、疑われにくい。
彼は、動いた。殴らない。脅さない。金も使いすぎない。合法の端を歩く。端は、滑るが、落ちにくい。
宗教には、和解の話が持ち込まれた。謝罪と再発防止。具体性はない。だが、締切がある。締切は、思考を止める。
警察には、資料が届いた。過不足のない資料。過不足がないほど、疑われにくい。疑う余地は、空白にしか生まれない。
マスコミには、独占が提示された。条件は、穏やかだ。名前は出さない。背景は匂わせない。時系列だけを、正確に。
SNSは、沈んだ。燃料が届かない。燃料がない火は、自己消火する。
夜明け前、黒崎は港を歩いた。潮の匂い。エンジン音。世界は、続いている。比較の対象が消えた今、同一性は更新されない。
彼は、最後の選択をする。
真実を、終わらせる。
それは、隠すことではない。嘘を重ねることでもない。使わないという選択だ。真実は、使われなければ、ただの重りになる。
彼は、宗一の名を口にしなかった。祈らなかった。探さなかった。探せば、物語が延びる。
残された側は、生きることを選んだ。
秩序の中で。
代償として、確信を失う。
夜が明ける。港は動き出す。トラックが走り、書類が回る。
真実は、どこにも出てこない。
だが、選択の痕だけが、世界に残った。




