第二十六章 名前
名前は、刃より重い。
それまで誰も言わなかった。言えなかった。言わないことで、均衡が保たれていた。音はあっても、顔は曖昧だった。役職はあっても、固有名詞は空白だった。
夜は、雨だった。雨は、言葉を軽くする。誰もが、明日には消えると思うからだ。
発端は、地方局の深夜枠だった。視聴率は低い。だが、見ている層が違う。内部者、関係者、そして、待っている者。
若い記者は、原稿を二度書いた。名前のある稿と、ない稿。デスクは迷った。法務は首を振った。だが、編成は言った。「今なら、通る」
オンエア直前、一本の電話が入った。声は、落ち着いていた。条件提示。圧力。取引。すべて、丁寧だった。
——「守りたい秩序があるのは、分かる」
——「だが、守られてきた秩序の名前は、誰だ」
電話は切れた。決断は、残った。
番組は始まった。VTR。二分十七秒の波形。比較。沈黙。司会者の喉が鳴る。
そして、言ってしまった。
一人の名前。
フルネーム。役職。過去の肩書き。現在の立場。曖昧にしなかった。ぼかさなかった。一度だけ。
スタジオの空気が変わった。誰かが息を吸い、誰かが目を伏せた。司会者は、次の文を読めなかった。
不可逆だった。
名前が出た瞬間、全てが遡及する。過去の写真、会合、献金、宴席。偶然が、連続に変わる。
宗教は、即座に声明を出した。距離を取る文言。個人の逸脱。組織の関与否定。だが、名前は声明を読まない。
警察は、動いた。動かざるを得なかった。事情聴取、任意、聴取。違法性は未確定。だが、名前が出た以上、手続きは始まる。
裏社会は、静かに配置を変えた。名前は、矢印を作る。矢印は、報復と保身の方向を決める。
マスコミ内部では、祝杯と葬式が同時に開かれた。数字は跳ねた。だが、戻れない者が出た。
SNSは、爆発した。正義、私刑、検証。正確さは置き去りだ。だが、止められない。
宗一は、病室でその名前を聞いた。胸が痛んだ。終わらせる決断が、輪郭を持った。
黒崎は、港で同じ名前を呟いた。笑いは、なかった。名前は、商売を壊す。
第三者は、手を引いた。商品は、炎上で儲かる。だが、実名は火力が過ぎる。
その夜、誰かが越線した。
名前を出した者か。
出させた者か。
止めなかった者か。
不可逆なのは、結果だけだ。
朝になっても、雨は止まなかった。




