第二十章 越線
夜は、音を吸う。
雨上がりの街で、鷲尾は歩いていた。帰宅ではない。巡回でもない。戻らないための移動だった。胸ポケットの個人ノートが、重い。紙は増えていない。だが、意味が増えすぎた。
電話が鳴る。非通知。出ない。もう一度。出ない。三度目で切れる。切れたあとに、メッセージが届く。
《今夜、消えます》
送り主は書かれていない。だが、鷲尾は分かった。文体だ。守るための文体が、もう守らない側に傾いている。
同じ頃、宗教施設の地下で、澤村は鍵束を握っていた。管理表にはない鍵。残ってしまった鍵だ。彼は数分、動かなかった。越線は、足ではなく、指先から始まる。
金庫室の温度は低い。書類は整然と並ぶ。整然としすぎている。改ざんの跡はない。改ざんしない選択が、痕跡になる。
澤村は、スマートフォンを取り出した。撮らない。送らない。代わりに、番号だけを写す。日付、箱番号、閲覧者の符号。意味は外に出ない。だが、意味は増殖する。
港の倉庫では、黒崎が部下を止めていた。
「今夜は、線を越えるな」
越える理由は山ほどある。だが、越えない理由は一つだけ。**今夜は、誰かが越える。**重なる夜に、二人目はいらない。
マスコミの編集部で、若い記者が原稿を開いた。見出しは弱い。中身は硬い。だが、文末に一行、余計な注釈がある。内部用の符号。残してはいけない癖だ。
デスクは気づいた。だが、消さなかった。消せば、責任になる。残せば、事故になる。
未明、鷲尾は橋の上で立ち止まった。川面に、街灯が割れて映る。彼は、ノートを取り出し、破らなかった。破るのは、楽だ。渡す方が、越線だ。
公衆電話は、まだ一台だけ残っている。受話器は冷たい。番号を押す。覚えていないはずの番号が、指に残っていた。
「資料は、残っている」
相手は名を名乗らない。鷲尾も名乗らない。会話は三十秒で終わった。十分だ。
そのころ、澤村は鍵を元に戻していた。痕跡は消えた。だが、**意味は外に出た。**彼は知っている。戻れる線は、もうない。
SNSの《共鳴》に、投稿が一つ増えた。具体はない。だが、番号の癖がある。見る人が見れば、分かる。
警察本部で、アラートが一つ点いた。消える。再び点く。誰も触らない。触れば、事件になる。
宗教施設の警備記録が、数分だけ欠けた。理由は、通信不良。いつもの理由だ。
黒崎は、煙草を折った。火をつけない。
「始まったな」
始まったのは、暴露ではない。告発でもない。線が、別の線に触れただけだ。
越線は、音を立てない。だが、翌朝、三つの組織で、同じ言葉が囁かれた。
——昨夜、誰かが、やった。
誰かは、特定されない。特定されないから、止まらない。
夜は、すでに、次の越線を準備していた。




