第二章 取引
病院の特別応接室に、黒崎剛志は現れなかった。
代わりに現れたのは、年齢不詳の男だった。黒いスーツに白いワイシャツ。ネクタイは締めていないが、隙はない。名刺には何も書かれていなかった。
「黒崎からです」
男はそれだけ言って、封筒を机に置いた。中には、すでに記入済みの書類が入っている。養子縁組届。名前の欄だけが空白だった。
「急ですね」
教祖が言うと、男はわずかに口角を上げた。
「時間が経つほど、選択肢が減ります」
それは脅しではなく、事実だった。警察は光輪会の資金の流れを嗅ぎ回っている。マスコミも内部告発の噂を掴みつつある。黒崎組との関係が表に出れば、宗教法人の認可取り消しも現実的だ。
教祖は書類に目を落とした。そこに書かれる名前が、どちらの人生を決定づけるのか。
「条件は?」
「不可侵。互いの領域には踏み込まない。選挙の時期だけ、協力関係を確認する」
あまりに具体的で、あまりに現実的だった。
教祖は、ふと別の可能性を思いつく。双子のうち一人ではなく、将来、入れ替えることもできるのではないか。その考えを、すぐに振り払う。今は選ぶ時だ。
ペンを持つ手が止まる。
赤子の顔が脳裏に浮かぶ。どちらも同じ顔。だが、役割は違う。
「こちらで名は決める」
教祖はそう言って、書類を引き寄せた。
男は何も言わずに頷いた。
その瞬間、取引は成立した。血縁を担保にした契約。破られれば、双方が破滅する。
教祖は理解していた。これは犠牲ではない。保険だ。未来のための、残酷な合理性。




