第十九章 不可逆
死は、予定表に載らない。
未明の雨が上がった直後、宗教施設の裏手で、一人の男が倒れているのが見つかった。名は伏せられた。役職も伏せられた。発表に残ったのは、年齢と、事故の可能性という曖昧な言葉だけだった。
転落。高さは中途半端だ。即死とも、助かったとも言い切れない。発見までの時間が、すべてを決めた。
警察は、現場を囲った。写真は最小限。聞き取りは簡潔。雨が、痕跡を薄めてくれる。都合のいい天候だと、誰もが思ったが、誰も口にしない。
鷲尾は、足元の水たまりを見た。跳ね方が不自然だ。だが、不自然は証拠にならない。証拠にしないと、決めれば。
「事故ですか」
同僚の問いに、鷲尾は頷いた。頷きは判断ではない。合意だ。
宗教側の対応は早かった。祈祷が行われ、映像が流れ、哀悼の言葉が並ぶ。個人は語られない。役割としての死に変換される。寄付の窓口は一時閉じられ、翌日には再開された。
宗一は、発表文を読んだ。言葉は整っている。だが、行間に、選択の痕が残っていた。誰が最初に見つけ、誰が最初に連絡し、誰が最初に黙ったか。
裏社会では、別の解釈が回った。
——警告。
黒崎は、煙草を消した。転落は、最も誤解を呼びやすい。押したのか、滑ったのか、見捨てたのか。**答えが分かれたまま残る。**使い勝手のいい死だ。
「うちじゃない」
彼はそう言った。嘘ではない。だが、関与していないとも言っていない。線を引くのは、いつも言葉の外側だ。
マスコミは、短い記事を出した。写真なし。背景なし。**続報なし。**編集会議で決まったのは、扱いを小さくすること。大きくすれば、圧が来る。小さくすれば、忘れられる。
SNSでは、《共鳴》に一文だけ増えた。
《同じ靴音を、前夜に聞いた人はいませんか》
反応は少ない。だが、質が変わった。具体が、滲む。
遺族の母は、記事を切り抜いた。切り抜きは、新聞の端だった。**端に置かれる死。**ノートに、日付と天候を書く。終わらせてもらえていない感覚が、濃くなる。
病院で、男は息を引き取った。家族への説明は、丁寧だった。丁寧すぎるほど。質問を挟む余地がない。
宗一は、通夜に姿を見せなかった。代わりに、弔電が読まれた。形式は完璧だ。欠けているのは、遅れだけ。彼の声には、あの夜から、遅れがあった。
黒崎は、部下に言った。
「今夜は動くな」
動かない命令は、最も重い。誰かが、すでに動いた後だからだ。
鷲尾は、個人のノートを閉じた。書いたのは二行。
《不可逆。事故とも警告とも見捨てとも取れる》
《圧の後、必ず起きる》
真実は、選ばれなかった。選ばれなかった真実は、消えない。形を変えて残る。
翌朝、施設の裏手の花が、新しく植え替えられていた。土は柔らかく、足跡は残らない。
最初の死は、社会に受け入れられた。
だからこそ、次は、受け入れられない。




