第十五章 裂芽
光輪会の施設は、静かだった。
静けさは、清浄ではない。音が管理され、感情が均され、疑問が置き去りにされている状態を、内部では「落ち着き」と呼ぶ。祈祷の時間割、奉仕の当番、献金の締切。すべてが予定通りに流れる限り、誰も深く考えなくて済む。
澤村は、その流れに慣れていた。
入信して八年。役職は渉外補佐。外部との連絡窓口を任され、信者の中では“信頼されている側”にいた。疑問を口にしない。顔色を読む。必要な沈黙を選ぶ。それが、評価につながる世界だ。
違和感は、小さなことから始まった。
宗一の話し方が、少しだけ変わった。間が短くなり、言葉が減った。祈りは同じだが、判断が早い。迷いがないというより、ためらいがない。
「成長だよ」
周囲はそう言った。後継者としての成熟。澤村も、そう思おうとした。
だが、ある夜、内部資料の整理中に、澤村は二つの記録を見比べてしまった。
同じ日、同じ時間帯に、宗一の名前が二カ所に出ている。外部講演と、内部会合。移動は物理的に不可能だ。入力ミス。そう片づけることもできた。
できた、はずだった。
澤村は、消さなかった。修正もしなかった。残した。
翌日、上から注意が入った。
「記録は、簡潔に」
それだけだ。訂正指示はない。つまり、気づいている。
澤村の中で、何かが割れた。
信仰が壊れたわけではない。裏切りたいとも思っていない。ただ、整合性が崩れたものを、無視できなくなった。
さらに、奉仕担当の女性が突然、配置換えになった。理由は体調不良。だが、私物は処分され、連絡は遮断されている。澤村は、彼女が以前、宗一の視線を怖がっていたことを思い出した。
確信はない。だが、点は増えていく。
澤村は、夜の祈祷後、裏の資料室に入った。許可はある。だが、目的は違う。彼は、コピーを取らない。持ち出さない。覚える。
金の流れ。関連法人。外部業者。名前を変え、形を変え、同じところに戻る線。
宗教は、教義で人を縛るのではない。
生活で縛る。
澤村は、気づいてしまった。ここで裏切るという行為は、大声で叫ぶことではない。沈黙の質を変えることだ。
その夜、澤村は、匿名の下書きを書いた。送らない。消さない。保存する。
《中にいる者です。顔の話は、事実です》
送信ボタンは押さない。押せば、すべてを失う。だが、書いたことで、もう元には戻れない。
翌朝、宗一が通りかかった。
澤村は、深く頭を下げた。いつもより、わずかに遅れて。宗一は、一瞬だけ足を止め、澤村を見た。
視線が合う。
そこにあったのは、怒りでも慈悲でもない。計算だった。
澤村は理解した。
もう、見られている。
裏切りは、まだ起きていない。だが、芽は出た。踏み潰されるか、育つか。
信仰は、疑いで壊れるのではない。
疑いを抱いたまま、日常が続くことで腐る。
澤村は、その腐敗の匂いを、はっきりと嗅いでいた。




