第十四章 越線
鷲尾は、署の地下資料室にいた。
湿気のこもった空気。蛍光灯の唸り。誰も来ない時間帯を選んだ。来ないのではない。来ないことにされている場所だ。
彼は、線を引くことに慣れていた。越えないための線。踏み込まないための線。警察という組織は、その線を守ることで回る。だが今夜、鷲尾は一つだけ、意図的に足を出した。
湾岸倉庫の事故記録。女の死亡報告。照明誤認の定型文。すべては整っている。整いすぎている。
鷲尾は、原本と写しを並べた。微細な差異。時刻の丸め方、署名の筆圧、添付写真のExif。嘘は一つだが、整合性は複数で破綻する。
彼は、別件の捜査資料を引っ張り出した。宗教法人関連の金の流れ。寄付名目の講座受講料。匿名のギフトコード。線が、同じ端末に集まる。
さらに、暴力団対策課の内部メモ。黒崎組の“回収”が減った時期。交渉が増え、暴力が減る。人が変わった時の組織の癖だ。
鷲尾は、写真を拡大した。
祈祷室の監視カメラ。白衣の男。視線の癖。顎の角度。数フレーム後、倉庫の通路。黒いジャケットの男。歩幅。肩の沈み。
同じ顔。
だが、同じ人物の連続ではない。
彼は、声紋の断片を重ねた。完全一致ではない。だが、否定もできない。裁判にはならない。報告書にもならない。だが、現場の刑事は、ここで判断する。
鷲尾は、メモを作った。短く、具体的に。誰が、いつ、どこで、何を見たか。仮説は書かない。仮説は、切られる。
上に上げない。
代わりに、残す。
彼は、個人用のノートにだけ、線を引いた。点と点を結ぶ細い線。いつか誰かが、同じ点に触れたとき、重なるための線だ。
午前三時、携帯が震えた。
「余計なことをするな」
番号は表示されない。声は、どこにでもある声だった。命令ではない。確認だ。
鷲尾は答えない。答えないことが、返事になる世界だ。
翌日、彼は呼び出された。
「体調はどうだ」
上司は、目を見ない。労わりの形をした境界線だ。鷲尾は、頷いた。
席は残る。担当は外れる。切られないが、使われない。
昼休み、署の裏口で、遺族の母を見かけた。声はかけない。かければ、線を越える。だが、目が合った。
一瞬。
母は、何も言わず、深く頭を下げた。鷲尾は、同じ角度で返した。言葉は不要だった。
夜、鷲尾は自宅で、ノートを閉じた。
踏み越えた線は、戻れない。だが、越えなければ見えないものがある。
彼は、理解している。
この件は、事件にはならない。真実は、公式には存在しない。
それでも、線は引かれた。
踏み越えた刑事が一人いる。
それだけで、均衡は、もう完全ではなかった。




