第十二章 交換
その夜は、静かすぎた。
雨は降っていない。風もない。都会の雑音だけが、一定のリズムで流れている。こういう夜ほど、取り返しのつかないことが起きる。
光輪会の本部施設では、定例の夜間祈祷が行われていた。信者の数は少ない。形式だけの集まりだ。重要なのは、人の目が限定されていることだった。
宗一は、祈祷室の奥にいた。白衣。清潔。照明の当たり方まで計算されている顔。外から見れば、いつも通りの後継者だ。
同じ頃、別の場所で、同じ顔の男がシャワーを浴びていた。
黒崎組の管理するマンション。タイルの目地に、落ちきらない血の色が残っている。爪の間に入り込んだ赤黒い汚れを、何度もこすり落とす。落ちない。記憶の方が、先に残る。
二人は、直接会わない。
連絡役を挟む。顔を知らない人間。声だけを運ぶ装置。この夜に必要なのは、確信ではなく成立だった。
手順は単純だ。
時間、服装、動線。どこで誰に見られるか。何人に「いつもの宗一」を確認させるか。逆に、何人に「別の宗一」を見せるか。
完全な入れ替わりではない。
曖昧さを残す。証明できない程度に。
祈祷が終わる直前、宗一は一度だけ、奥の控室に下がった。そこから先の動線は、記録に残らない。
数分後、同じ顔の男が、別の出口から出て行く。誰も止めない。止める理由がない。
一方、マンションの方では、シャワーを終えた男が、用意された白衣に袖を通す。サイズは完璧だった。鏡の前で、一瞬だけ立ち止まる。
違和感は、声だ。
同じだが、同じではない。喉の使い方、間。だが、信者は聞き分けない。聞き分けたいとも思わない。
深夜零時過ぎ、施設の裏口に、防犯カメラが一台だけ映像を落とす。故障。偶然。報告は翌日。
祈祷室に戻った男は、続きを務めた。言葉は、台本通り。誰も疑わない。信仰は、確認作業を嫌う。
その頃、本来そこにいるはずの男は、別の車に乗っていた。行き先は曖昧だ。名義のない道を走る。
翌朝、二つの報告が上がる。
一つは、宗一がいつも通り祈祷を終え、体調不良で表に出なかったという記録。
もう一つは、黒崎組の養子が、その夜、所在不明だったという内部メモ。
矛盾は、誰も突かない。
マスコミは扱わない。警察は動かない。宗教は語らない。暴力団は説明しない。
入れ替わりが起きたのかどうか。
確証はない。
だが、数日後、宗一の周囲で、微妙な変化が報告され始める。視線の癖、沈黙の長さ、判断の速さ。
「変わった?」
誰かが言いかけて、やめる。
同時に、裏の世界では、黒崎組の動きが一段、洗練されたと噂される。無駄な暴力が減り、交渉が増えた。
同じ顔。
違う中身。
それを証明できる者は、もういない。
この夜、確かなのは一つだけだ。
社会は、確信がなくても回る。
そして、回ってしまった以上、誰も止め方を知らない。




