第十章 重影
事件は、深夜二時過ぎに起きた。
場所は湾岸沿いの古い倉庫街。名義上は解体待ち、実態は人と金が一時的に滞留する“中継点”だった。警察の巡回は少ない。通報があっても、到着までに時間がかかる。
最初に異変に気づいたのは、警備を請け負っていた男だった。
入口付近で、宗一を見た。白いシャツ、宗教団体の若き後継者としてよく知られた顔。視線を合わせると、会釈をした。確かに本人だった。
数分後、別の通路で、同じ顔を見た。
今度は、黒いジャケット。歩き方が違う。背中に、暴力に慣れた人間特有の余白がある。男は一瞬、息が止まった。同時刻、同一空間に、同じ顔。
倉庫の奥では、取引が進んでいた。
女たちは、番号で呼ばれる。名前は不要だ。肌に残る痣は、隠すためのメイクで均されている。血の匂いは消せない。鉄と汗と、消毒液。誰も声を荒げない。ここでは、静かな方が安全だった。
トラブルは、ほんの些細な行き違いから始まった。
支払いが遅れた。誰かが余計な情報を握っていた。理由はどうでもいい。黒崎組の回収役が一歩踏み出し、女の腕を掴んだ。骨が鳴る音が、はっきりと聞こえた。
その瞬間、宗一が制止に入った。
「ここで問題を起こすな」
声は穏やかだった。説法の声だ。場の空気が、一瞬だけ緩む。
次の瞬間、もう一人の男が現れた。
同じ顔。
しかし、動きは速い。無駄がない。掴まれた腕を外し、回収役の喉元に肘を入れる。鈍い音。男が崩れ落ち、床に血が広がった。致命傷ではないが、再起不能だと誰もが分かった。
倉庫内が、凍りついた。
「……二人、いる」
誰かが呟いた。その一言が、全員の認識を揃えた。見間違いではない。酒でも幻覚でもない。
女の一人が、悲鳴を上げた。抑え込まれ、床に倒される。コンクリートに頭を打ち、音が途切れた。血が流れ、誰も近づかない。ここでは、倒れた人間は“処理待ち”になる。
宗一は、その光景を直視できなかった。だが、目を逸らすこともできなかった。自分と同じ顔の男が、淡々と場を制圧していく。その姿に、説明のつかない既視感が胸を締めつける。
黒いジャケットの男――黒崎の養子は、宗一を見た。
視線が絡む。
一秒にも満たない時間。だが、その間に、二人は理解した。否定できない事実を。
同時に、複数のスマートフォンが起動した。動画。写真。証拠。だが、その多くは翌朝までに消える。回線が混み合い、アカウントが凍結され、データは残らない。
警察が到着した時、倉庫は半分、片づいていた。
倒れていた女は、搬送されたが意識は戻らない。回収役の男は、事故として処理された。二人の“同じ顔の男”について、報告書にはこう書かれる。
――照明の関係で、誤認が生じた可能性。
真実は、記録されなかった。
だが、現場にいた者たちの脳裏には、焼き付いている。宗教と暴力、同じ顔、同じ血。
この夜を境に、均衡は静かに崩れ始める。
誰もが知ってしまったからだ。入れ替わりが、可能だということを。




