[008] 剣聖の導きとラフィナ商会の誕生
まだ日も昇りきらない、霧に包まれた広場で、十歳の少年は流れるように木剣を振るっていた。
ルック・トールセン――すでに父エイドルから剣術を一通り叩き込まれ、執事サジルとの実戦も積んでいた。
「ふむ……十歳でこれとは」
背後から現れたのは剣聖コルネウス。肩に担いだ大剣は、成人の兵すら持ち上げられぬ代物だ。
「コルネウスさん、あなたのように強くなりたい。父とサジルを奪った者たちを討つために」
うなずくと、剣聖は木剣を上段に添え、ゆっくりと構える。
「まずはルック、今持つすべての力を示すがよい。剣聖が教えるに値するか、見てやろう」
そう告げるや否や、コルネウスは木剣を振り下ろした。
雷鳴のような衝撃。
ルックは正面から受けず、左足を半歩引いて剣先をそらす――「流し受け」。重量を真正面からは受けず、斜めに滑らせて衝撃を殺す。
「おお……」
いつの間にか集まっていた村人達が息を呑む。十歳の子供が剣聖の一撃を逸らしたのだ。
間髪入れず、ルックは踏み込む。「中段突き」――木剣の切っ先を腹部へ鋭く突き込む。
しかしコルネウスは即座に鍔で弾き返した。
「悪くはないが、まだ速さが足りん!」
再び大剣が唸りを上げる。
ルックは受け流しざまに剣を翻し、「返し突き」を繰り出す。弾かれた勢いをそのまま利用し、逆方向へ突きを差し込む技だ。鍔迫り合いの一瞬に放たれたその突きは、確かにコルネウスの袖をかすめた。
「ほう! 返しを会得しているか。十歳でここまでとは……」
ルックは息を荒げつつも、瞳は揺らがない。
「父が言っていました。『突きは剣の最短の道』だと。だから、返し突きを体に染み込ませろと」
「エイドルの教えか。――よし、ならば次は私が試す番だ」
コルネウスは木剣を横薙ぎに振るった。風圧だけで砂埃が舞う。ルックは低く潜り、膝を軸に回転――「逆袈裟返し」。懐に飛び込み、斜め下から切り上げる。木剣がコルネウスの鎧に当たり、乾いた音が響いた。
一瞬の沈黙。やがて剣聖は豪快に笑った。
「見事! 十歳の腕で剣聖の懐に踏み込むか!」
「……まだ浅い。これでは斬れません」
「その自覚があるなら伸びる。お前の剣はすでに兵の域を超えている。あとは執念だけではなく、剣そのものに志を持て」
夕暮れ。稽古を終えたルックは汗と泥にまみれた体を拭う。
突きの速さを、返し技の鋭さを、逆袈裟の深さを――もっと高めたい。
父の志、サジルの想い、剣聖の導き。すべてを糧とし、トールセン商会の復興を誓う。
十歳にしてすでに一兵の力を凌ぐ少年は、ここからさらに成長し、やがて一国の命運を背負う剣士であり商人となる。
その始まりが、このキルクークでの修行の日々であった。
* *
時は流れ、十六歳になったルック・トールセンの剣は、すでに師である剣聖コルネウスと真剣で打ち合える域に達していた。
身長こそ百七十センチと小柄だが、低い重心と俊敏な踏み込みを活かした戦い方は、巨躯の戦士すら翻弄する。
「はあっ!」
風を切るようなしなやかな踏み込みと共に繰り出された突きが、コルネウスの胸元を鋭く狙う。
「悪くない!」
大剣は払うのではなく、添えるような最小限の動作で突きの軌道をそらす。火花が散り、次の一撃でさらに霧散した。
十歳で始まった修行から六年。
ルックの剣は鋭さだけではなく、剣聖の呼吸や間合いを読む眼を備えつつあった。
コルネウスが笑みを浮かべ、剣を収める。
「もう私と毎日撃ち合う必要もないだろう。次は商人としても立つ時だぞ、ルック」
実際、噂はすでに広がっていた。
――かつて滅びたトールセン商会の嫡男、ルックが健在だ。
その噂を耳にしたかつての使用人や護衛たちが、ひとり、またひとりと戻ってきていた。
「商会を興す気はないか」
コルネウスの問いに、ルックは静かにうなずく。
「トールセンの名を継ぐには、俺はまだ弱すぎます。力を持つまでは、別の旗を掲げようと思います」
その日、集まった元使用人や護衛たちの前で、ルックは宣言した。
「俺は――ラフィナ商会を興す」
その名に込めたのは再生と希望。父と執事サジルの無念を背負い、再び商会を立ち上げる決意であった。
やがてルック一行は王都の商人ギルドへ向かった。
石造りの会館は王都でもひときわ大きく、日々数百もの商人が出入りしている。
受付で「ラフィナ商会」としての登録を申請すると、役人たちがざわめいた。
「……ルック・トールセン? まさか、生きていたのか」
小声が広がる中、ギルドは規定に従い申請を受理するしかなかった。
登録を終えたルックは掲示板に目をやり、一つの依頼を見つける。
「物資の運搬か。手始めには悪くない」
元従業員たちが馬車を整え、新たな紋章を掲げる。若き商会長と仲間たちは、再び商道を走り出した。
だが、その動きを見逃さない者がいた。
――バルバリア商会。
トールセンを滅ぼした黒幕たちは、若き嫡男の名がギルドに登録されたと知るや否や、密かに指示を下す。
「運搬の途上で事故に遭わせろ。奴の息の根を必ずここで断つ」
トールセンの名声はいまだ根強く、再興されれば厄介以外の何物でもない。
「ルック・トールセンは剣を使うとの噂があります」
「金ならいくらでも出す。確実に仕留めろ」
その命を受けた刺客たちが、街道の影に潜んだ。