[023] 決断
宰相本邸の大広間には、張りつめた空気が漂っていた。すでに陽は落ち、珪石の煉瓦で築き上げられた宰相本邸の壁面には、魔導具が放つ淡い光が揺らめき、白色の壁を紅く染め上げ、集まった貴族たちの影を大きく投影する。
貴族たちは、第二王子派に対する報復の是非を巡り、議論を交わしていた。宰相本邸を襲ったレグルス男爵……。そのレグルス男爵の背後には、ビルヘイデン伯爵の存在があり、宰相本邸襲撃が、ビルヘイデン伯爵の指示によるものであることは、疑う余地がない。
だが、王国宰相トマス・グレイストン伯爵は、卓の中央から、険しい表情で諸侯を見渡し、軽挙妄動を諫める。
「ここで剣を抜けば、王都は内戦となり、王国を二分する争いに発展しかねん――それだけは、何としても阻止せねばならぬ」
宰相の言葉に、貴族たちは一様にうなずき、口々に同意の声を上げる。しかし、その光景を冷めた目で見つめる一部の貴族たちが、視線を交わし、無言で頷き合う。その視線の中央にいるのは、主戦論を掲げるエンドルフ伯爵家の第二子、クリフ・エンドルフだった。そして彼の意に賛同する幾人かの貴族は、宰相の制止を意に介さず、すでに兵を整え終えていた。
ほどなく、二百余の兵が王都の石畳を蹴り、夜の街路を一斉に駆け抜けた。松明の列は怒涛のごとく連なり、その矛先は、ビルヘイデン伯爵邸へと向けられている。
* *
エルス醸造所では、懸命の防火活動が繰り広げられていたが、火はその勢いを容赦なく増し、醸造所に燃え移るのは時間の問題だった。ヨーゼフは醸造所からの退去を決断し、いずれ醸造所を再建するときに備え、魚醤や酒を醸造するために欠かせない、酵母や麹などの種を丁寧に木箱に詰める。種は代々受け継がれてきたエルス醸造所の技術そのものであった。
「トールセン商会は風上にあります。建物も人も、無事なはずです。そちらへ落ち延びましょう」
ニコラスの落ち着いた声に背を押され、ヨーゼフとクレオ、そして従業員たちは、ついに醸造所を後にした。
クレオは足を止め、そっと後ろを振り返る。まさに今、火のついた醸造所を、その目に深く焼き付けると、何も言わず前を向き、再び歩き出した。
街道は、炎を避けようとする王都民で溢れ返っていた。泣き叫ぶ幼児の声や、はぐれた子を探す母親の悲鳴が入り混じり、避難の列は混雑に阻まれて思うように進まなかった。焦燥に駆られた男たちの怒声が飛び交い、その一つひとつが、群衆の不安と恐怖に拍車をかける。
「ニコラスさん、このままでは商会まで一刻はかかりますよ」
ラルフの顔に焦りの色が浮かぶ。もし、風向きがこちらに変わってしまったら……。ニコラスも同じことを考えていたのか、無言で頷く。
「この先の橋を越えれば、火は届かず、安全に避難できます。それまで、皆さん、気持ちを強く持って耐えてください!」
普段、物静かなニコラスが必死で激を飛ばす。ラルフと他の護衛たちがエルス醸造所の人たちに寄り添い、風上の橋を目指す。
そして、間もなく橋が見えて来る。必死で駆け抜けた一同だったが、ラルフの不安が現実となる。
風向きが変わり、炎が一斉にニコラスたちに襲い掛かった。
ニコラスは、最後の決断を下す。
エルス醸造所が、バルバリア商会に襲われた時の連絡手段として、ルックから預かっていた光の魔導具を掲げ、トールセン商会に救援を求めた。
* *
トールセン商会の本店では、『爆炎の魔導具』の捜索が続けられ、情報収集と指示出しのため、ルックとグレン、そしてミラが商会長室で待機していた。
しかし、定期的に訪れる報告内容は、芳しくなく、『爆炎の魔導具』の行方は未だ、つかめなかった。
今、王都にいる要人は、王国宰相トマス・グレイストン伯爵とヤームシュタット公爵、それに第一王子、スネル・ホルフィーナの三名だ。王都に在住する他の第一王子派の貴族は、万が一、欠けたとしても、派閥にとって致命的な影響はない。
王国宰相トマス・グレイストン伯爵は、すでに厳戒態勢を敷いているはずだ。そう考え、ルックは、ヤームシュタット公爵の護衛として、選りすぐりのトールセン商会護衛を派遣していた。
スネル・ホルフィーナ王子は、城にいる限り、暗殺は難しいだろうとルックは考えた。三人が暗殺されない状況を整え、そのうえで『爆炎の魔導具』を見つけ出し、暗殺の芽を摘むつもりでいた。
そんな中、ルックの元に駆け込んだ商会員が、予想だにしなかった事態を告げる。
エンドルフ伯爵家の第二子、クリフ・エンドルフが、ビルヘイデン伯爵襲撃を企図し、警戒態勢を敷いていたビルヘイデン伯爵と交戦状態に入り、王都内で乱戦状態となったというのだ。王都民にも甚大な被害が出始め、事態を重く見た、国王ゼノス・ホルフィーナ二世は、第一王子、スネル・ホルフィーナに鎮圧を命じたと言うのだ。
「今、スネル王子が前線に出れば格好の的じゃないか!」
最悪の事態を思い浮かべたルックは、グレンと、幾人かの護衛に声を掛け、第一王子護衛のための出撃準備を整えた。
そして今、まさに出撃しようとした、その時だった。
ルックの光の魔導具に対し、一直線に光が差し込む。
それは、ニコラスからの救援依頼だった。




