[019] 王都騒乱の兆し
大柄な二人の護衛を後ろに従え、王都の石畳を歩くクレオは、ほんの先ほどまで対面していたルック・トールセンのことが頭から離れなかった。
トールセン商会の商会長。ここのところ、驚異的な勢いで勢力を拡大し、王都の商人なら誰もがその名を恐れ、あるいは羨む人物だ。しかし、クレオの目に映ったルックは、商人というよりも研ぎ澄まされた武人のように見えた。
治療用の魔導具で怪我を癒してくれている最中、ふと目が合った瞬間の、血の気が引くような冷たさが頭の中にこびりついて離れない。
噂で聞いた通りかもしれないとクレオは思った。
かつては王国の物流を一手に支え、誠実な商いで知られたトールセン商会だが、今は、強引な買収、高利貸し、他商会の妨害、ギルドとの癒着……。そして裏ではバルバリア商会と血で血を洗うような抗争に明け暮れている。
バルバリア商会との抗争は、第一王子と第二王子の代理戦争だとも聞く。
(トールセン商会に、本当に身を寄せて大丈夫なのか、僕は?)
考えるうちに、胃の腑から何かがせりあがり、吐き気に襲われた。
「クレオさん、体調がすぐれないようですが、大丈夫ですか?」
クレオの様子にいち早く気づいた護衛のニコラスが、心配そうに声をかけた。
四十代後半くらいだろうか。鍛え上げられた肉体とは裏腹に、白い毛が混じった頭髪と、垂れ目がかった優しい表情のせいで、どこか面倒見のよい大工の親方を思わせる男だった。
もう一人の護衛、ラルフは、少し後方から一定の距離を保ち、静かに周囲へ気を配っている。
「ありがとうございます、ニコラスさん。暴力沙汰に巻き込まれたことなんて今までなくて……。少し精神的に疲れているのかもしれません」
「暴力沙汰に巻き込まれて精神的に参ってしまうのは、誰だって同じですよ。ひとまず、商会長の庇護下にいれば安全です。今はそれだけで十分でしょう」
ニコラスの温かい言葉に、クレオはもう一度「ありがとうございます」と頷いた。
本当は、その商会長こそが不安の源なのだと打ち明けるわけにもいかず、嘘をついてしまったことが胸の底に小さな罪悪感のように残った。
翌日、驚いたことにクレオたちが営む魚醤の醸造所にルックとミラが訪れた。慌てて出迎えたクレオとクレオの父に「お気遣いなく」と言い、醸造所の見学を願い出た。
「昨日は、クレオさんがエルス魚醤醸造所の息子さんとは気付かずに失礼いたしました」
ミラが丁寧に頭を下げる。ミラの話しでは、トールセン商会が営む宿や飯屋では、すべてエルスの魚醤が使われているという。ただ、トールセンの名を出すとバルバリア商会の妨害を受けるため、店では商会との関係を伏せているらしい。
「つまり、謀らずとも、クレオが運んでいた魚醤は、うちの依頼だったわけだ」
昨日とはうって変わって楽しそうなルックを見て、クレオがふぅっと小さく息を吐く。
「つまり、うちの醸造所は、トールセン商会さんの庇護下に入るしかないってことですね」
「よろしくな」とルックがクレオの肩を叩く。不思議なことに昨日感じた冷たさは、微塵も感じなかった。
様子を見守っていたクレオの父が近づき、深々と頭を下げる。
クレオの父、ヨーゼフ・エルスは、暴漢から息子を助けてくれたこと、そして怪我の治療と護衛の派遣の礼を述べる。
「ヨーゼフさん、バルバリア商会と揉めたからには報復されると考えておいたほうがいいです。トールセンの腕利きの護衛を醸造所の警護に何人か連れてきました。無粋ですが、置いておくことをご了承ください」
「いえ、バルバリア商会から、うちの魚醤の取り扱いをバルバリア商会に独占させろと言われ、断ってから何度も嫌がらせを受けています。こちらとしても願ったり叶ったりですよ」
クレオがその話を聞いたのは初めてだった。そういった事情なら、昨日の暴行事件もバルバリア商会の嫌がらせだったのかもしれない。
「もしかして……ルックさんはすべて分かっていて助けてくれたんですか?」
思わず漏れたクレオの問いに、ルックはわずかに目をそらし、気まずそうに答えた。
「いや、グレンが暴れたのは……完全に偶然だ」
数日後、王都の至る所で、ネメセス商会がエルス魚醤醸造所の息子を襲い、通りがかったトールセン商会の人間に返り討ちにされたと噂が出回った。
噂は瞬く間に広まり、尾ひれをつけながら街中を駆け巡った。クレオはその渦中に自分がいることに、いまだ現実味が湧かないでいた。
そんなある日、エルス魚醤醸造所の息子が何者かに襲われ、大怪我を負ったという噂が王都を駆け巡った。
その噂は、クレオの耳にも届く。
(そんな、まさか……。僕は、襲われてなんかいないぞ……)
さらに数日がたった頃、王都は新たな噂で持ちきりになった。エルス魚醤醸造所の息子と間違って襲われた人物が、第一王子派の王国宰相の嫡男だという。
噂が真実であれば、大変なことになると王都中が騒然とした。




