第二話 宰相特使の天秤
宰相特使リィナ・シルバーアッシュの登場は、一触即発だった空気に、冷水を浴びせたかのような静寂をもたらした。
彼女の名が持つ権威もさることながら、その穢れのない、しかし芯の通った佇まいに、ドワーフもエルフも、思わず武器を握る手を緩めた。
「双方、武器を収めてください」
リィナの声は、穏やかだが、有無を言わせぬ響きがあった。
「私は、争いを止めに来たのではありません。真実を、見つけに来たのです。ゴリン・スティールシェイパー殿、ライラ・メドウライト殿。まずは、お二人から、それぞれ詳しくお話を伺います」
彼女は、どちらか一方に肩入れすることなく、中立の立場を明確にした。
ゴリンとライラは、互いに不満げな視線を交わしながらも、宰相特使の要請を拒否することはできず、渋々それぞれの陣営へと引き下がった。
リィナの調査は、まずドワーフの野営地から始まった。
彼女は、ゴリンが案内する資材置き場で、問題の工具箱を目の当たりにした。
「…見事な錠前ですね」
リィナは、指でその複雑な機構をなぞった。
傷一つない、完璧な状態だ。
「ああ。俺の一族に伝わる、七重仕掛けの特殊錠だ。正しい手順を知らぬ者が無理に開けようとすれば、内部の機構が自壊する。ピッキングなど、到底不可能だ」
ゴリンは、自らの作品を前に、悔しさと誇りが入り混じった声で言った。
「では、犯人は鍵を持っていたか、あるいは…」
「鍵は、この世に二つしかない。一つは俺が、もう一つは山にいる俺の親方が持っている。そして、この錠前は、エルフの使うような幻術や魔法を完全に遮断する、ミスリル銀の合金でできている」
ゴリンの言葉は、暗に「犯人はエルフではない」という可能性を、皮肉にも示唆していた。
リィナは、錠前にはそれ以上触れず、空になった工具箱の前にそっと膝をついた。
そして、目を閉じ、その繊細な指先を、箱が置かれていた地面に、そっと触れさせた。
ゴリンは、その不可解な行動を、訝しげに見つめている。
(何をしているんだ、この娘は…)
リィナの眉間に、深い皺が刻まれていく。彼女は、大地と対話していた。
(…おかしい)
彼女が感じ取ったのは、怒りでも、悲しみでもなかった。
そこにあるのは、奇妙な「沈黙」。
まるで、大地が何かを必死に隠し、固く口を閉ざしているかのようだった。
誰かが、大地の記憶そのものに、蓋をしたかのような、不自然な空白。
「何か、分かりましたか?」
リィナが顔を上げると、ゴリンが怪訝な顔で彼女を見下ろしていた。
「…いいえ。ただ、少しだけ、大地が疲れているように感じました」
リィナは、核心には触れず、そう言って静かに立ち上がった。
次に彼女が向かったのは、ライラが待つ、枯れた銀葉樹の若木の前だった。
ライラは、まるで我が子の亡骸に寄り添うかのように、その場に力なく座り込んでいた。
「…見て。あんなに元気だったのに」
ライラの声は、か細く震えていた。
リィナは、枯れた若木の根元にそっと触れた。
その瞬間、彼女の全身を、ぞわりとした悪寒が駆け巡った。
(この感覚…!)
それは、かつて賢者アルドゥスが大地を蝕んでいた、あの呪詛に似ていた。
だが、もっと悪質で、冷たい。
アルドゥスの呪いが「生命力の略奪」だとしたら、これは「生命そのものの否定」。
大地が、この場所だけ、生きることをやめてしまっているかのようだった。
「ライラさん、この木が枯れる前、何か変わったことはありませんでしたか?例えば、見慣れない鳥が鳴いていたとか、土の匂いが違ったとか…」
「いいえ、何も。前の日の夜までは、いつも通り、月の光を浴びてキラキラと輝いていたわ。それが、朝になったら、この姿に…」
ライラは、そう言って、再び顔を伏せた。
リィナは、二つの現場から得た、言葉にならない「感触」を胸に、ゴリンとライラを、中立地帯である森の入り口の広場に呼び出した。
「お二人の言い分は、よく分かりました。ですが、どちらの主張にも、奇妙な点があります」
リィナは、まずライラに向き直った。
「ライラさん。もし、ドワーフの方々が報復のためにこの木を枯らしたのだとしたら、なぜ、こんな手の込んだ方法を取ったのでしょう? 彼らの気性を考えれば、ただ斧で切り倒す方が、ずっと直接的で、確実なはずです。まるで、誰かに『呪い』だと思わせたいかのような、不自然な枯れ方だとは思いませんか?」
ライラは、はっとしたように顔を上げた。
確かに、そうだ。
あの無骨なドワーフたちが、こんな陰湿な呪いのような手口を使うとは考えにくい。
次に、リィナはゴリンに向き直った。
「ゴリンさん。あなたも、エルフの方々が犯人だとお考えのようですが、もし彼女たちが工事を妨害したいのなら、なぜ、あなたの個人的な工具だけを狙ったのでしょう? 資材置き場の石材を全て森の奥に隠したり、測量用の杭を全て折ってしまったりする方が、ずっと効果的なはずです。まるで、あなた個人の怒りを煽るためだけに、行われたかのような、的を絞りすぎた犯行だとは思いませんか?」
ゴリンも、ぐっと言葉に詰まった。
確かに、エルフの妨害にしては、あまりに手際が良すぎるし、規模が小さすぎる。
リィナは、二人の間に生まれた沈黙の中に、静かに言葉を続けた。
「この事件の犯人は、ドワーフでも、エルフでもありません。お二人の間に、そして、二つの種族の間に、決定的な亀裂を生み出そうとしている、第三の誰かです」
彼女は、自らが調査で感じ取ったことを、二人に伝えた。
「工具が盗まれた場所の大地は、何かを隠すように『沈黙』していました。そして、この木が枯れた場所の大地は、生命そのものを拒絶するように『無』になっていました。どちらも、自然の摂理ではありません。誰かが、極めて高度な術を使って、この二つの事件を演出し、お互いのせいに見せかけようとしているのです」
「第三の者だと…?」
ゴリンが、疑念の声を上げた。
「こんな森の奥深くに、俺たち以外に誰がいると言うんだ」
「います」
リィナは、きっぱりと答えた。
「私が王都を発つ前、宰相閣下から、この森に関する古い記録を読ませていただきました。この森の西、馬で半日ほどの場所に、かつて人間たちの小さな集落があったそうです。ですが、数十年前に起きた原因不明の疫病で、一夜にして滅びたと…。その集落は、今も打ち捨てられたままのはずです」
その言葉に、ゴリンとライラは顔を見合わせた。
自分たちのすぐ近くに、地図にも載っていない廃村が存在した。
その事実が、二人の心に、これまでとは質の違う、新たな疑念を生み出していた。
「…確かめに行くしかない、ということか」
ゴリンが、苦々しげに呟いた。
「ええ。犯人は、そこに潜んでいる可能性が高い」
ライラも、静かに頷いた。
「ですが、危険です」
リィナは、二人の覚悟を確かめるように言った。
「もし、私の推測が正しければ、相手は、私たち三人を同時に相手にしても、まだ余裕があるほどの、手練れです」
重い沈黙が、三人を包んだ。
いがみ合っていたはずの二人の間に、初めて、共通の「敵」という認識が芽生えようとしていた。
「…行くぞ、エルフ」
最初に沈黙を破ったのは、ゴリンだった。
「俺の誇りを盗んだ奴に、借りを返さねばならん」
「ええ。あの子の命を奪った落とし前は、きっちりつけてもらわなければ」
ライラも、白木の弓を手に、静かに立ち上がった。
こうして、ドワーフの技師と、エルフの番人、そして人間の特使という、奇妙で、そしてどこかちぐはぐな三人組の、最初の冒険が始まろうとしていた。
彼らの前には、ただの犯人探しでは終わらない、森のさらに深い闇が、静かに口を開けて待っている。
三人は、互いの背中をまだ完全に信頼しきれないまま、リィナが指し示す西の廃村へと、その第一歩を踏み出したのだった。




