第三話 森の裁き
「…リアン…」
ライラの唇から、震える声と共に、一つの名前がこぼれ落ちた。
リアン。
師であるエルドリンの一番弟子であり、ライラにとっては兄のような存在だった男。
誰よりも森を愛し、その知識はライラさえも凌ぐほどだったが、同時に、誰よりも人間とドワーフを「穢れ」として嫌っていた。
「ライラさん、その方は?」
リィナの問いに、ライラはゆっくりと顔を上げた。
そのクールな表情は、深い苦悩と、信じたくないという思いで歪んでいる。
「私の、兄弟子。エルドリン様が最も信頼し、そして、最もその頑なさを憂いていた方。彼なら…彼なら、森の番人の術を使い、誰にも気づかれずにゴリンのテントに忍び込むことも、可能だわ」
「動機はなんだ」
ゴリンが、低い声で尋ねた。
「森の孤立よ」
ライラは、力なく答えた。
「リアンは、森は森だけで完結すべきだと、常々言っていた。人間やドワーフとの交流は、森を汚すだけだと。街道建設に最も反対していたのも、彼だった。師であるエルドリン様がドワーフとの交流を深めることを、彼は『森を売る行為だ』とまで言っていたわ…」
三人の間に、重い沈黙が流れた。
犯人の姿が、おぼろげながら見えてきた。
だが、確たる証拠はない。
リアンは、エルフの中でも人望が厚く、森の知識にかけては右に出る者はいないという。
彼を告発すれば、ライラは同族殺しの濡れ衣を着せた裏切り者として、集落から追放されるだろう。
「…証拠を、見つけるしかない」
ゴリンが、決意を固めたように言った。
「奴が犯人なら、必ずどこかにボロを出しているはずだ。俺の斧を盗んだ手口、そして、あの式典の場で、どうやって誰にも見られずに長老を殺害したのか。そのトリックを暴く」
彼の激情は、もはや個人的な怒りだけではなかった。
ドワーフとエルフの友好関係を壊されたことへの憤り、そして何より、隣で苦悩する相棒を救いたいという、熱い思いが、彼の心を突き動かしていた。
◇
その夜、三人は行動を開始した。
ライラは、自らの集落に潜入し、リアンの小屋の様子を探る。
ゴリンとリィナは、事件現場である広場を再調査し、犯行のトリックを解明しようとしていた。
ライラは、月の光だけを頼りに、音もなく木の枝を渡り、リアンの小屋が見える大木の上へとたどり着いた。
小屋の窓からは、ランプの明かりが漏れている。
リアンは、机に向かい、何かを熱心に書きつけているようだった。
その横顔は、ライラがよく知る、森を愛する実直な兄弟子のままだった。
(本当に、彼が…?)
ライラの心が揺れる。
だが、彼女は意を決して、森の小動物だけが聞き取れる、特殊な音波の矢を放った。
それは、かつてエルドリン長老が彼女とリアンだけに教えた、緊急時の合図だった。
矢の音を聞いたリアンは、一瞬だけ、驚いたように顔を上げた。
そして、窓の外の闇を、探るように見つめた。
その瞳の奥に、ライラは、一瞬だけ、見慣れない冷たい光が宿るのを見た気がした。
一方、ゴリンとリィナは、事件現場である広場にいた。
「やはり、おかしい」
ゴリンは、広場全体を見渡せる木の上から、犯行現場を再現するように、何度もシミュレーションを繰り返していた。
「あの時、長老とバリン師匠は、焚き火を背にして、広場の中心に立っていた。周囲は、何十人ものエルフとドワーフが輪になって囲んでいたんだ。死角は、ない。斧を投げれば、必ず誰かの視界に入るはずだ」
「ですが、ゴリンさん」
リィナが、不思議そうに言った。
「あの時、私は少し離れた場所にいましたが、凶器が飛んできた方向は、ゴリンさんたちのテントの方向ではなかったように思います。もっと…森の、深い方から…」
「何!?」
ゴリンは、リィナの言葉に、目を見開いた。
「なぜ、それを早く言わん!」
「す、すみません!あの時は、あまりに混乱していて…」
森の深い方から。
その一言が、ゴリンの脳内で、新たな数式を組み立て始めた。
(犯人は、テントから俺の斧を盗んだ。そして、森の闇に紛れて、広場から離れた場所に移動し、そこから長老を狙った…? だが、それほどの遠距離から、正確に斧を投げることなど、可能なのか? いや、待てよ…)
彼の思考が、一つの仮説に行き着く。
(もし、あれが、投げられた斧ではなかったとしたら…?)
◇
翌日、ライラは、意を決してリアンと対峙した。
「リアン。昨夜の合図、気づいたでしょう」
「…ああ。お前だったのか、ライラ。一体、何の真似だ」
リアンの声は、穏やかだった。
だが、その瞳は、ライラの心を射抜くように、鋭く光っている。
「単刀直入に聞くわ。エルドリン様を殺したのは、あなたなの?」
リアンは、一瞬だけ、悲しげに目を伏せた。
「…ライラ。お前まで、ドワーフの戯言に惑わされたのか。長老を殺したのは、あのゴリンという男だ。ドワーフの斧が、全てを物語っている」
「いいえ、あれは斧ではなかった」
ライラの静かな否定に、リアンの表情が、初めて僅かに揺らいだ。
「確かに、師の背中にはドワーフの斧が突き刺さっていたわ。でも、リィナが検分したところ、傷の深さと形が、斧にしてはあまりに小さく、鋭利すぎる。まるで、太い矢が一本、深々と突き刺さったかのようだった、と。あなたなら、可能でしょう?森の幻術で、矢を斧に見せかけることくらい」
「証拠はあるのか」
リアンの声が、氷のように冷たくなった。
「ないわ。でも、私は、あなたを知っている。あなたが、誰よりも森を愛し、そして、誰よりも外部の者を憎んでいることを」
その時だった。
ゴウン、ゴウン、という、地響きのような音が、森の奥から響き渡ってきた。
古霊が、再び活動を始めたのだ。
エルフたちが、恐怖にざわめき始める。
「古霊様がお怒りだ!やはり、ドワーフどもが森を穢しているのだ!」
シルヴァヌスが、好機とばかりに叫んだ。
だが、その混乱の中、ゴリンとリィナが、広場に姿を現した。
ゴリンの手には、奇妙な、大きな筒のようなものが抱えられている。
「皆、聞け!」
ゴリンの声が、広場に響き渡る。
「長老を殺した手口が、分かったぞ!」
全てのエルフの視線が、ゴリンに突き刺さる。
「犯人は、遠距離から斧を投げたのではない。もっと巧妙な手口を使ったんだ。それは、エルフの知恵をで作られた、この武器だ!」
ゴリンは、抱えていた筒を、リアンに向けた。
「これは、強靭な木の蔓をゼンマイのように使い、圧縮したその力で、鉄の矢を音もなく射出する、一種の弩だ!そして、矢には、斧の形をした幻影を纏わせ、あたかも斧が飛んできたかのように見せかけた!違うか、リアン!」
リアンの顔から、血の気が引いた。
ゴリンの推理は、完璧だった。
犯行に使われたのは、彼が秘密裏に開発していた、森の素材だけで作れる、暗殺用の武器だったのだ。
「…素晴らしい推理だ、ドワーフ」
リアンは、観念したように、静かに拍手をした。
「だが、証拠はどこにある?お前のその想像の産物が、私を犯人だと証明できるのか?」「証拠なら、今、ここにある!」
ゴリンは、リィナが大切そうに抱えていた布の包みを、ゆっくりと開いた。中から現れたのは、凶器となった一本の木の矢だった。
「この矢に使われている木材は、この森の奥地、森の番人しか入れない聖域に生える『月光樹』だ!そして、その矢尻には…!」
ゴリンは、矢尻を指差した。
「殺されたエルフの長老の血が付いている!これは、保管されていた凶器の『斧』の幻影を解いたものだ!」
追い詰められたリアンは、ついにその本性を現した。
「そうだ、私がやった!」
彼は、懐から短剣を抜き、ライラに襲いかかった。
「長老は、裏切り者だ!この聖なる森を、欲深い人間やドワーフに売り渡そうとした!私は、森を守ったのだ!森の番人として、当然の務めを果たしたまで!」
だが、彼の刃がライラに届くことはなかった。
飛んできた石つぶてが、彼の手から短剣を弾き飛ばす。
リィナだった。
そして、その背後から、ゴウン、という地響きと共に、古霊が、その巨大な姿を現した。
「古霊様!」
リアンは、歓喜の声を上げた。
「ご覧ください!私は、あなたの意思を代行し、この森の穢れを祓ったのです!さあ、私に力を!あのドワーフと人間を、この森から追い出すのです!」
古霊の、燃え盛る光の渦が、リアンを見下ろした。
だが、その光は、深い悲しみの色をしていた。
古霊は、リアンに与しなかった。
ただ、その巨大な木の腕を、ゆっくりと伸ばし、彼の体を、優しく、そして抗うことのできない力で、包み込んだ。
リアンの体は、みるみるうちに、古霊の体の一部である、巨大な木の幹の中へと、吸い込まれていく。
「な…何を…やめてください…!私は、森のために…!」
彼の悲痛な叫びは、やがて古霊の中へと完全に消えていった。
「彼は、罰せられたのではありません」
ライラが、静かに言った。
「古霊様は、彼に、本当の森の声を、その魂で聞くための時間を与えられたのです。数百年ほど、ゆっくりと」
真実を目の当たりにしたエルフたちは、言葉を失い、ただ、その場に立ち尽くしていた。
シルヴァヌスもまた、自らの過ちに気づき、深く頭を垂れた。
古霊は、役目を終えたかのように、再び森の奥深くへと、その姿を消していった。