第二話 追われる技師と森の番人
古霊の怒りは、嵐のように森を蹂躙した。
一夜にしてドワーフの野営地は半壊し、街道建設のために積み上げられた石材は、無残な瓦礫の山と化した。
夜が明ける頃、古霊は再び森の奥深くへとその姿を消したが、後に残されたのは、破壊の爪痕と、もはや修復不可能に思えるほどの、深い断絶だった。
エルフの集落では、強硬派の指導者シルヴァヌスが、ゴリンの首に高額の懸賞金をかけ、ドワーフたちに最後通牒を突きつけていた。
「三日以内に、殺人者ゴリン・スティールシェイパーの身柄を引き渡せ。さもなくば、残りの者たちも同罪とみなし、力づくで森から排除する」
ドワーフたちは、傷ついた仲間をかばいながら、なすすべもなく野営地の隅で肩を寄せ合っていた。
彼らの目には、エルフへの恐怖と、そして、どこへ消えたか分からないゴリンへの不信の色が浮かんでいた。
その頃、ゴリンは一人、森の中を逃げ惑っていた。
(なぜだ…なぜ俺の斧が…!)
彼は、あの混乱の最中、誰にも告げずに姿を消した。
自分が容疑者であることは明白だった。
このまま捕まれば、弁明の機会もなく処刑されるだろう。
そうなれば、ドワーフとエルフの間に、血で血を洗う戦争が起きる。
それだけは、避けなければならない。
だが、行く当てもない。
ドワーフの仲間たちの元へ戻れば、彼らを危険に晒すことになる。
かといって、この広大な森で、エルフの追手から逃げ切れるはずもなかった。
彼は、岩陰に身を潜め、荒い息を殺した。
遠くから、エルフの若者たちが、自分の名を呼びながら捜索している声が聞こえる。
激情家の彼には珍しく、その思考は、冷たく、澄み渡っていた。
(犯人は、誰だ? あの式典にいた者の中にいる。俺の斧を盗み出し、長老を殺し、そして、俺に罪をなすりつけることで、最も利益を得る者は…)
彼の脳裏に、エルドリン長老とは常に対立していた、あの強硬派の指導者、シルヴァヌスの顔が浮かんだ。
◇
ライラは、師であるエルドリンが息を引き取った場所に、一人、静かに佇んでいた。
地面に残る血の染みは、彼女の心の傷そのものだった。
彼女の仲間たちは、ゴリンへの復讐を誓い、森中を捜索している。
だが、彼女の心は、その熱狂から取り残されたように、冷たく静まり返っていた。
(本当に、ゴリンが…?)
あの不器用で、石頭で、しかし誰よりも実直なドワーフの顔が浮かぶ。
彼が、ようやく芽生え始めた友情を、自らの手で断ち切るような真似をするだろうか。
第一、あの式典の場で、あれほど多くのエルフとドワーフに囲まれた中で、どうやって誰にも気づかれずに斧を投げることができたというのか。
「ライラさん」
静かな声に、ライラは振り返った。リィナだった。
ライラが尋ねる。
「…何か、分かりましたか?」
「はい」
リィナは、一枚の布切れをライラに差し出した。
それは、現場近くの木の枝に残っていた、ドワーフの衣服の切れ端だった。
「これは、ゴリンさんのものではありません。ドワーフの衣服は、全て鉱石の染料で染められています。ですが、この布に残る染料の痕跡は、ごく微量ですが、植物性のものです。恐らく、森の木の実か何かで、ドワーフの服の色を模倣しようとしたのでしょう」
「…偽装工作…」
「ええ。そして、もう一つ」
リィナは、エルドリン長老が倒れていた地面を指差した。
「長老の血が流れたことで、大地は深く怒り、古霊を目覚めさせました。ですが、その怒りの奥で、大地は、別のことも囁いているのです。『この血は、真実の血ではない』と」
その言葉が、ライラの心に突き刺さった。
(大地が、嘘の血に怒っている…)
リィナの言葉は、彼女の迷いを断ち切る、最後の決め手となった。
「リィナ、私は行くわ」
ライラは、弓を手に、静かに立ち上がった。
「ゴリンを探しに。彼を裁くためじゃない。真実を、聞くために」
「はい。私も、そうすべきだと思います」
リィナは、穏やかに微笑んだ。
「私は、公式な調査官として、ここに残ります。シルヴァヌスさんたちの注意を、できるだけこちらに引きつけておきますから」
◇
ライラは、森の番人にしか分からない、微かな痕跡を追った。
他のエルフたちが、怒りに任せてがむしゃらに捜索する中、彼女だけが、ゴリンの思考を読んでいた。
(あの石頭のことだわ。ただ闇雲に逃げるはずがない。追手の思考の裏をかき、最も警戒が手薄で、かつ、いざという時に反撃できる場所…)
彼女は、物理的な痕跡ではなく、ゴリンが放つ怒りと焦燥の気配、そして、彼が選びうる最も「論理的」な逃走経路を予測した。
彼女は、半日も経たないうちに、森の奥深く、滝の裏にある洞窟に身を隠しているゴリンを見つけ出した。
「…来たか、エルフ」
ゴリンは、洞窟の入り口に立つライラの姿を認めると、手斧を構え、警戒を露わにした。
「俺を、殺しに来たのか」
「あなたを信じに来たわ、石ころ頭」
ライラは、クールな表情を崩さずに言った。
「単刀直入に聞くわ。あなたが、師を殺したの?」
「…俺じゃない」
ゴリンは、即答した。
「あの斧は、俺のものだ。だが、式典の前に、テントから盗まれていた。気づいた時には、もう遅かった」
ライラは、ゴリンの目を、真っ直ぐに見つめた。
その瞳の奥にあるのは、嘘の色ではない。
悔しさと、怒りと、そして、深い無念の色だった。
「…分かったわ。信じる」
ライラのその一言は、絶望の淵にいたゴリンにとって、唯一の光だった。
「だが、どうする。俺は、今や森中のエルフから追われる身だ。ここも、すぐに見つかるだろう」
「ええ。だから、移動するわよ」
ライラは、こともなげに言った。
「一番、安全な場所へね」
◇
ライラがゴリンを連れて行った「一番安全な場所」。それは、皮肉にも、エルフの集落の、ど真ん中だった。
「正気か、お前は!?」
ゴリンは、木の枝と葉で巧みにカモフラージュされた、エルフでさえもう誰も使っていない古い見張り台の跡地に身を隠しながら、小声で叫んだ。
眼下では、仲間たちが「打倒ドワーフ!」と息巻いて、槍を研いでいるのが見える。
「灯台下暗し、という言葉を知らないの? あなたを探している者たちが、まさか自分たちの本拠地にいるとは思わないでしょう」
ライラは、涼しい顔で答えた。
その夜から、ゴリンの、悪夢のような潜伏生活が始まった。
彼は、身をかがめ、息を殺し、エルフたちの会話に耳を澄ませた。
彼らの会話から、犯人に繋がる手がかりが見つかるかもしれないからだ。
だが、聞こえてくるのは、自分への呪詛の言葉と、師を失った悲しみの歌だけだった。
そして何より、彼を苦しめたのは、エルフの食事だった。
ライラが、仲間たちの目を盗んで、毎食運んでくるのは、木の実と、花の蜜と、そして、彼が最も嫌う、葉っぱのサラダだけ。
「…なあ、ライラ」
三日目の夜、ゴリンは、ついに限界に達していた。
「頼むから、一度でいい。肉を、焼いて食わせてくれないか…」
「私たちエルフは、肉は特別な儀式の時にしか食べないわ」
「肉がダメなら石でもいい」
「石は食べ物じゃないわ、石ころ頭」
「木の実や葉っぱばかり食べさせられるくらいなら、石の方がマシだ」
ゴリンは本気でうめいた。
ライラは、呆れたように、しかしどこか楽しげに、ため息をついた。
◇
そんな奇妙な共同生活の中、リィナが、重要な情報をもたらした。
「ゴリンさん、あなたの斧が保管されていたテントですが、現場を再調査したところ、奇妙なことが分かりました」
「何がだ」
「あなたのテントは、野営地のほぼ中央にあります。周囲は屈強なドワーフの皆さんが警備を固めていました。それなのに、誰にも気づかれずに斧を盗み出す…そんな芸当ができるのは、よほど身のこなしが軽いか、あるいは…」
リィナは、ライラに視線を向けた。
「あるいは、森の番人のように、森の音に紛れて気配を消す術に長けた者だけです」
「…やはり、犯人はエルフか」
「ですが、おかしいのです」
リィナは、首を傾げた。
「シルヴァヌスさんたち強硬派の若者たちは、感情的ではありますが、これほど隠密に行動できるとは思えません。まるで、森を知り尽くした達人が、その技術を悪用したかのようで…」
その言葉に、ライラははっとしたように目を見開いた。
彼女の脳裏に、一人のエルフの顔が浮かんでいた。
穏健派だった師、エルドリンの元で、共に森の教えを学んだ、兄弟子。
誰よりも森を愛し、誰よりも人間との関わりを嫌っていた、あの男。
そして、エルドリンが殺される数日前、「長老は、森を売るおつもりだ」と、彼女に不満を漏らしていた、あの男の顔が。
「…まさか…」
ライラのクールな表情が、初めて、信じられないという驚愕の色に染まっていた。