8 振り子時計に思いを馳せて
2004年に書いた小説を一部リライトし、20年ぶりに引っ張り出して、ホコリを払い、掲載し直してみました。内田百閒文体を試したくて書いてみた短編習作です。
博物館の跡地で大量に捕獲された野良犬が、保健所の悩みの種になっているそうである。今朝新聞で読んだ。
何でも、この大量の犬たちはどこからやってきたのかわからない、もしかしたら飼い主が探しているかも知れず、保健所のキャパはとうに超えているのであるが、安易に処分できずにいるというのであった。保健所の連中はまったくご苦労なことだと思った。毎日の餌代だって馬鹿にならないだろう。しかしこれから殺してしまう犬たちにせっせと餌をやらなければいけない気分というのは、徒労感の他にないだろう。
私はそんな記事を読んでしまったものだから何だか気分がくさくさして、朝からビールの缶を一つ開けてしまった。つまみが何かないかと思って探したけれど見当たらない。幸いに外はよい天気であるので、博物館のあった広場まで行って、そこでビールを飲もうと思い立った。あそこなら人目につかないし、もちろんつまみは途中で買っていく。
私が通うように行っていた屋台の親父はもう店を閉めてどこかへ行ってしまった。まだ居たとしても、この時間ではまだ屋台は閉まっているはずであった。
つまみを何にするかということでだいぶ悩んだけれども、ビーフジャーキーを選んだ。犬たちがわずかでも残っていたら、それをくれてやる算段であった。しかし野良犬の姿は最後まで見当たらず、野良猫も見当たらなかった。しかし私は特に失望はしなかった。犬は保健所にいるのである。
博物館の土台はどういうわけだか、黒く焦げたまま放置されている。今は立入禁止の札も取れ、今は亡き博物館に思いを馳せながら、残された残骸のあいだを自由に散策することができる。
振り子時計が吊り下げられていたであろう場所に、私は腰を下ろした。私が好きだったステンドグラスをはめ込んだ窓も、高い天井も今はなく、ただ白い空が見えるばかりである。
今は警察署の一角で眠っているという振り子時計に、私は乾杯をした。何だか不思議な気分だった。胸の奥がぐらぐらするように感じた。わざわざ博物館を破壊する輩の意図がわからない。そういう輩は、余程暇だったに違いない。だから、暇が過ぎるというのは、あまり良いことではない。
ビールが飲んでも飲んでも体に溜まらないような気がする。そんな気がして次々と飲んでいるうちに、そろそろ小便がしたくなったり、腹が痛くなったりする。過去にも経験がある。暇にまかせて昼間から酒を飲んでいるからこうなるので、やはり暇というのは良くないものだと私は思う。
空が高い。寝転がって目をつむると、とてもよい気分だ。すべて世はこともなし、という大きく静かな気持ちになる。しかし私の気持ちが大きくなったり、心が広くなったりしたところで誰も喜びはしない。だから今日のところはおとなしく帰ったほうが良さそうである。