7 月と役人の靴
2004年に書いた小説を一部リライトし、20年ぶりに引っ張り出して、ホコリを払い、掲載し直してみました。内田百閒文体を試したくて書いてみた短編習作です。
博物館について何か知っていることはないか。
散歩をしている途中に、急に男にそう尋ねられて、私はびっくりしながら首を横に振った。博物館がなくなってからずいぶん経つのにこんなことを聞かれるなんて、何だか物騒だ。最近では博物館跡に野良犬も野良猫も見当たらず、博物館の土台だけが寂しく残っている。博物館があったことを憶えている人間は、一握りしか残っていないだろうと思われた矢先のことであった。
そういえばどこかの国がとうとう月に行きましたね、と私は言った。物騒な話題を世間話に変えるためであった。しかし相手はそれに応じてくれなかった。気詰まりになって相手の足元を見ると、相手の靴はしわが入って、くたびれていた。よほど歩き回っているのだろう。
そういえば、あの時計はどうなりました。
どの時計だい。
ほら、あの大きな振り子時計ですよ。
ああ、あれね、たぶん警察署のどこかに保管してあるだろう。
やはり役人のやることはつまらない。振り子時計をただ保管しているなんて、時計に失礼である。振り子時計は吊るされなければいけない。罪人ばかりくくっていないで、たまには文化的に振り子時計を吊るしたらどうなんだ。しかし私はそんなことは言わない。早いところ解放されて帰りたいからである。
月には兎がいるという話じゃないですか。月にいる兎はさぞかし高く跳ぶでしょうね。高く跳ぶということは逃げ足も速そうですね。しかし逃げ足が速くても逃げる必要がないと逃げられませんね。すると月には兎の天敵がいると考えなければいけない。兎の天敵がいるということは、そいつらは兎を喰って生きていることになりますね。兎はそいつらから逃げるわけだからさぞかし高く跳ぶでしょうね。しかし高く跳ぶのは月の重力が軽いからで、そうすると天敵の方だって月の重力の恩恵を受けているわけだから、いくら兎が高く跳ぶとは言ってもなんとか兎を追うでしょうね。追って喰うでしょうね。
黙りなさい。
役人が言った。
そんなに月が気になるなら、俺のこの靴を見てくれたらどうだ。俺もお前も地べたを這いずりまわっているんだよ。あんな高いところにある月なんて、お前には一生関係ないことだろうよ。月に兎がいようといまいと勝手だけれど、俺はこの地べたに這いつくばっているから、兎でもなんでもいい、とにかく毎日飯を喰いたいよ。そうしないと死んじまうからね。
では左様なら。
私はあいさつもそこそこにその場を後にした。役人の言うことはよくわからない。私は彼の靴をよく観察したけれど、いろいろと差し引いても、あんな靴よりは月の兎の方に断然に興味がある。