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歓喜の歌

作者: 石澤季佳

 

どれほど歩けばあの頃に帰れるだろうか

誰もいない処で手を叩く

僕は何を間違えたのだろう


今日も僕は台所下の扉が開かないようにとってに紐を括り付け固く結び直す

今日が晴れなら尚更強く、

妻が起きるその前に。

彼女が包丁やフォークで自身を傷付けないようにと僕は今日も…


1年前のあの日、

神様は僕に全ての罰を与えた

僕は妻と息子と3人で都会から自然豊かな田舎に越してきた、僕も妻も都会育ちではなく大学進学を機に都会に住み、そのまま就職し、職場で出会い結婚して子供を授かった

子供が3歳になった頃、

〝自然豊かな場所で伸び伸びと子供を育てたい〟 僕と妻の意見は同じだった。

そこからは、とんとん拍子で物事が進み、今のこの町に来た。半分自給自足の生活をし春になれば畑を耕し種を蒔き、夏は草刈り夏野菜の収穫、秋には収穫した芋や大豆を近所の方々と分け合い、冬は静かに春を待つ、空いた時間で農家さんの手伝いや雪はねの仕事し収入を得ている、幸せだ。そんな暖かで緩やかな日々、太陽は平等に光を与えて僕らはいつまでも変らないと思った。


風が気持ちが良い初夏、僕は大木を切り、息子に小さな小屋を庭に建てた、大人には少し狭いが子どもにとっては自分だけの基地に興奮し毎日昼間はそこで絵を描いたり落ち枝を集め工作をしたりと自分だけの城で楽しんでいた、そんな息子の姿を僕と妻は微笑ましく見ていた。

穏やかな日々に季節は優しく進む


「今日は朝から30度超えるわよ」

妻の声で起こされる、朝から汗ばむ体に食卓から漂う目玉焼きの香りに自然と腹が鳴る、今日は息子、共歌ともうの5歳の誕生日だ、共歌はこの日を楽しみにしていたのだ

「基地で1日過したい」

つまりは小屋に一人で泊りたいと言うのだ、5歳になったからもう一人でお泊りしたいと、 基地は家の庭にあるが5歳の子が親から離れて一人で寝ると言うのは中々の冒険だった

今までも〝基地で寝る!〟と突っぱねた事があったがまだ小さかった為、妻は〝もっとお兄さんになったらね〟と基地で一晩過ごす事を禁じていたが、あまりにも毎日、ねだられるのでつい、

「次の誕生日ね」そう言っていたのである。

そして今日がその日である、朝ごはんを早々と食べ共歌は基地へと行った


「何が楽しんだか」

妻は幸せそうに笑い僕も自然と笑顔になる

「誕生日ケーキ取りに行ってくれる?予約してるから、共歌の好きなチョコレートケーキ」


妻に頼まれ蝋燭を5本必ず貰うようにと言われ朝の薪割りを終えて昼前に出かけた

共歌は基地で楽しそうに遊んでいる。昼十二時を回った頃、気温は36度を超えていた

家から商店街までは車で1時間ほどで着く

車のドアを開けると一気に熱風が肌を包みこむ、思わず「うわっ」と声が漏れる、ケーキ屋に行く前におもちゃ屋に寄り欲しがっていた〝トランシーバー〟を手に取りレジへ行くと感じの良い品のあるお爺さん店主が

「贈り物でしたか?」

綺麗な包装紙に手をかざす

「はい…」

僕はこの店が商店街の小さなオモチャ屋なのに潰れずここに居てくれいる理由が分かる気がした


「おリボンの色はどうなさいます?」

「青でお願いします」


店主は優しく頷き、美しく包装してくれた

「ありがとうございます」

僕は心からそう言葉が溢れ落ちた

「ありがとうございます」

心から言う店主に軽く会釈をしてから店を出た


〝来年もまたこの店に来よう〟


そう思い外の暑さと心は爽やかに気分が良い。

ケーキ屋ではチョコレートケーキが溶けないように保冷剤を多めに貰った、蝋燭が5本あるのを確認して車の冷房を最大限に効かせて早々と家路に向かう。

帰宅すると居間で共歌は扇風機に顔をあてながら

「あぁぁぁ 宇宙人です」

風の勢いで声変わりする遊びをしていた、さすがの暑さに基地から家へ避難してきたのである、共歌は僕を見るなり、僕の片手に持たれたプレゼントに気が付きキラキラした目で

「これ、僕にでしょう!」

その場で飛び跳ねる、妻は僕の目を見て頷く

「共歌、誕生日おめでとう」

その場でプレゼントを渡すと、綺麗に包まれていた包装紙と青いリボンはあっという間に小さな手で破かれ、ほどかれた。

「うわぁ、トランシーバーだ!ずっと欲しかったやつだ!!」早速電池を入れて

「あ、あー聞こえますか?」

反響する自分の声に感動している様子だ、と途端にトランシーバーの一つを僕に渡し共歌は家を飛び出し小屋へと駆け出した

「あーあーこちらは共歌です、聞こえますか、お父さん…」

おもちゃではあるがしっかりと聞こえる息子の声に親の方も嬉しくなり


「あーあーこちらは、あゆみお母さんと潤お父さんです、聞こえますか?」


ラジオの周波数を合わせる時の音のようなボタン音


「すごいよ、お父さん!ありがとう!」


興奮気味の声がトランシーバーから聞こえ妻は声を出して笑った、その日は夕食の時間になるまでずっとこのトランシーバーでの会話に付き合わされた。

食卓は色とりどりに飾られ、お寿司に唐揚げ、海老フライ、いちごにキウイ、どれも共歌の好物ばかり並べられていた。

チョコレートケーキには5本の蝋燭

生まれてきてくれて〝ありがとう〟の意味を込めて歌う歌と同時に小さな唇で消される蝋燭の火、拍手は笑顔と変わる、

お腹いっぱいご馳走を食べ、うとうとしながら風呂を済ませ少し目が覚めた様子の共歌は懐中電灯片手に小屋で寝るという、妻は諦めたような顔で用意していた寝袋を僕に渡した

「おやすみなさい」少し心配そうな妻をよそに


「大丈夫だよ、お母さんが寂しくなったらこれで呼んでね」

共歌はトランシーバーを渡してくれた

小屋に寝袋を敷くと

「お父さん早くおうちに行って」強気だ。


寂しくなったら戻ってくるだろうと、僕は共歌の頬にキスをして家に入るとすぐにトランシーバーが鳴り何度か会話を続けると途中で応答が無くなり小屋に様子を見に行くと、ぐっすりと眠っていた


僕と妻は久しぶりに二人きりになり肌を重ねた


夜中尿意で起きた共歌は庭の隅でこっそり尿を済ませた、パジャマのズボンを上げるとポケットから蝋燭が落ちた、こっそりケーキの蝋燭をポケットに忍ばせていたのだ、

マッチと一緒に。

共歌は小屋に戻ると拾ってきた枝と枝の間に蝋燭を立てマッチを擦った、一瞬大きな炎と火薬の匂いに魅了される、炎を見つめ思わず

「あっちっち」

手を離した、マッチの火はすぐに消えた、共歌はもう一度マッチをする、

どうしても蝋燭に火をつけたいのだ、そして何度かマッチを擦り蝋燭に火をつけた

小さく温かく灯る蝋燭の火に鼻先が温かくなり安心する


「消すのがもったいないや」


そう言うと共歌は寝袋に入った

しばらくすると小屋は煙に包まれていた

自分の咳で起きる共歌。



お母さん……。

必死でトランシーバーを探す。

手に力が入らない。

お父さん……。



焦げた匂いで起きた僕は庭に飛び出した

小屋は赤々と燃えていた。

妻が裸足で出てきて大声で叫ぶ。

僕は燃え盛る火の中をかき分けた。

誰かが僕の腕を掴んだ。

そこからは、もう、


共歌の葬儀の日、妻は僕に言った


「あなたのせいよ」


その日から妻は人では無くなってしまった

僕は償いになった


朝、妻は起きて来なくなった、昼は一日中遺骨を抱いている、僕が声をかけると妻は声を殺して泣くだけだ。

夕方になると妻は自分の体を傷つけるようになる、ハサミ、包丁、カッター全てで体を少しずつ削っていく、たらたら溢れる血を見て心を落ち着かせるように、僕が止めると物凄い力で暴れまわる、奇声と共に家具がひっくり返りガラスは割れる、僕が一番辛いのは妻からの罵声だ


「お前のせいだ、返せ、許さない、代わりに貴方が死ねば良かったのに、早く私を殺してよ!!」


支離滅裂に並んだ言葉たちに耐える、心が悲しみと言う怪物に支配された彼女が眠りに着くまで僕は耐える、それが僕に出来る唯一の償いだから

そんな生活が半年が過ぎた頃、彼女は季節外れの夏物の綺麗なワンピースを着て居間に立っていた、目は座ったままで。季節の区別も感じられないほどか…と胸が絞られたが彼女には何も言わずそのままの服装でいる事に寄り添う事しか出来なかった。


僕自身も感覚が麻痺し彼女にどの言葉をかけても正解ではない事しか分からなくなっていた


「行こう」


そう声をかけると彼女は何も言わず車に乗った、精神的に追い詰められていく彼女を心療内科に連れていく事にした、意外にも彼女は素直に受診する事を受け入れてくれたのだった

会話のない車内に心無い声が鳴る


「私、上手に死ねるかしら 」


頬を濡らす彼女に、僕はかける言葉が見つけられずにいた

心療内科の待合室は異様な空気だ。患者たちは心と体がモノトーンに見えた。

優しい孤独が待合室を埋めていた


「私帰りたい」


小さな声で不安そうに言う彼女が久しぶり人に見えた、だから僕は妻の手を強く握り返した

1時間ほど待ち、名前が呼ばれ診察室の椅子に座る、初老の男性医師は優しく声をかける


「苦しいね、大丈夫ですよ、よく来てくれましたね」


そう妻にかけた言葉に僕は泣きそうになってしまった

妻は淡々と医師に語り出した、まるでおとぎ話をするみたいに。


『ある処に、幸せな家族が住んでいました。

物静かで優しいお父さん、

お料理好きで心配症なお母さん、

好奇心旺盛で元気な男の子、

今日は男の子のお誕生日です、欲しかったプレゼントをもらい男の子は大変喜びました

お祝いのケーキはチョコレートケーキ

ケーキには蝋燭が5本立っています

お腹がいっぱいになった男の子は自分のお城で眠ってしまいました

男の子は夜中に目が覚めると、さっきケーキにのっていた蝋燭に火を灯したくなりました。

男の子の誕生日の支度に気を取られていた心配症のお母さんはうっかり薪風呂の火付けに使うマッチをしまい忘れていました、

男の子はそれをそっとポケットに忍ばせていました

そして男の子は火をつけました

小さな灯りを見つめながら永遠の眠りにつたのでした。

お母さんは悲しみました、

そしてお父さんを責めました、

お父さんは何も悪く無いのに。

それから私は人ではなく暴れて泣く事しか出来ないモンスターになりました。』



妻は話終わると子供みたいに嗚咽しながら泣きじゃくる、肩で息をするほど


「先っ生、…お願いっです、しゅ、しゅ、主人からっ私をっ、解放…してっください」


医師は黙ったまま頷き、妻は看護師に支えられ背中をさすって貰いながら別室へ行き、医師はそのまま僕を真っ直ぐ見た

「辛っかったですね」と僕の背中をさすってくれた

僕は堰を切ったように涙が溢れた


「僕は妻を愛しています、共歌を救えませんでした、妻を救いたいのです、ですが…もうどうしたら良いか分かりません…」


いつぶりだろう、真面な会話をするのは…初めて誰かに話す想い。僕は気が付いていた妻がマッチをしまい忘れていた事で自分を責めていた事、僕を強く責める事で行き場の無い感情を投げて少しでも心が軽くなりたい事も、全て、全て、全て。

時間を巻き戻したいと願い、これは悪い夢でも見ているんだから目を覚ませば良いんだと、覚めろ、覚めろ、と思いながら眠りにつく夢の中で共歌に会いたいなんて思いたくもない、だって今が夢の中なんだと暗示をかける日々。


帰りの車内は少しだけ綺麗な空気に感じた


家に着くなり妻は久しぶりの外出に疲れたのか何も言わず部屋に行き、遺骨を抱きしめすぐに眠った。

初めて誰かに思いを話した僕は医師がくれた薬を見つめ、〝もう十分だ〟と思い飲むのをやめた、そして一番の薬は愛だと気がついた

数ヵ月が経ち、薬のおかげか妻は落ち着いて見えた、明日は共歌の誕生日(命日)だ、妻は相変わらず横になっている

「ケーキ、買ってきてね、チョコレート」

そう妻が呟いた

僕は車を走らせながら


〝あの日に戻りたい〟


と心から願った

小雨が車の窓ガラス落ち


〝今年は雨か…〟と。


〝あの日には帰れない〟


と神様に言われている気がした。


僕は自然とケーキ屋よりも先にあのおもちゃ屋に足を向けていた、買う物なんか無いのに…それでも何かプレゼントを買ってやりたかった。

六歳の共歌は何を欲しがっているだろう…きっと字も読めるようになったから虫図鑑だろうか、それとも自転車だろうか、補助輪をとって早く練習させないとな。それとも野球のグローブだろうか、サッカーボールか… 一つ、一つ手に取り六歳の共歌の喜ぶ顔を思い浮かべて自然と口元が緩み幸せな気持ちになった、なのに頬に涙が伝い、僕まで雨降りになった。


〝会いたい、会って抱きしめたい〟


気がつくと僕はおもちゃ屋に二時間ちかくいた

虫図鑑を手に取りレジに向かう、店の主人はあの時と同じ笑顔でここに居てくれている


「贈りものですね?とても品物を悩まれていたので、きっとお喜びになられますよ」


そう言うと店主は綺麗な黄色の包装紙に図鑑を包み青いリボンを着けてくれた


「今年も青のリボンにさせて頂きました」

そう優しく微笑む店主を見て僕は涙を堪えながら


「ありがとうございます、また必ず来ます」

店を後にした

息を整えてからケーキ屋に入り、蝋燭を貰うか悩んだが6本貰いポケットにしまった。


次の日、妻は起きてこない

お寺の住職さんが来ても妻は部屋からは出て来なかった

僕は少しホッとした

もしも暴れわまったら共歌が不憫だから

夕方、何もないテーブルにケーキを置いた

妻が部屋から出てくると、

綺麗な声で歌い出す


「 ハッピーバースデートゥ ユー

  ハッピーバースデートゥ ユー

  ハッピーバースデーディア 

     共歌

  ハッピーバースデートゥユー 」


子供用椅子に遺骨を乗せてケーキを切り分ける

僕はなんて言えばいいだろうと少し戸惑っていた


「共歌は歌が上手だったね、」

妻は以前の様な優しい顔で僕に話をかけてきてくれた

嬉しかった

この感じはいつぶりだろうか会話が成り立っている、このまま妻が元気になってくれたらいいのに…と淡い期待が胸をよぎる…


「共歌、今年のプレゼントだよ」


僕はそう言い遺骨の前に置いた


「良かったねぇ、何かなぁ?」


 妻は微笑みながら包装を開ける


「やったねぇ共歌、図鑑だよ、字が読めるようになったから写真だけじゃなくてどんな虫か、ちゃんと分かるね」


そう言って本を開く


〝そうか、共歌が来ている…側に共歌を感じる〟


きっと妻も同じ気持ちなのだろう

六歳の共歌を想像しながら話し自然と笑顔が溢れる、一晩中、共歌との思い出と未来を語り合った。


〝ありがとう、共歌、お母さん笑ったよ〟


僕は妻の頬に触れキスをした、

そのまま床に寝転ぶ


「共歌が見てる…」


その言葉は妻が共歌の死を受け止めていると僕が感じた瞬間だった僕の上着をそっと、優しく遺骨にかけ


「よく寝ているよ」


そう妻に言うと僕らは愛し合った。


翌朝、暖かな味噌汁の香りと包丁がまな板にあたる音で目が覚める、妻が朝食を作っていたのだ、あの頃のように。

この日を境に妻は以前と変わらないとまでは言わないが自分で体を傷つける行為や泣き叫ぶ事は無くなった、夜はまだ毎晩泣いているが妻は妻なりに前に進もうとしているのだろう。

定期的に心療内科内の受診も続いていた

妻は妊娠していた


「共歌が帰ってきたんです」


と話す妻は少し狂気に満ちていた。


「絶対男の子、この子は男の子」

とお腹を撫でる姿に

〝女の子だったら…〟

妻が壊れてしまわぬか、その子を愛すだろうか僕は確信に満ちた不安にかられた、僕たちは生まれるまで性別を聞かなかった、


妻の心は壊れたままだった。


蝉の声が響く真夏日

あぁ、まるであの日みたいな暑い日に妻は無事に元気な女の子を産んだ

名前は うたと名付けた、2980グラムの小さな体で力強く泣く姿に僕は恐々と娘を抱く。

〝共歌、妹が生まれたぞ…〟天国まで届きそうな娘の泣き声が母親を求めている

病室の窓から微かに風が入り妻の髪を撫でる。妻は空を見ている。


「ちがった…」


妻がそう呟くとそのまま娘を抱くことはなかった

家に帰宅し、新しい生活が始まる

僕はどうしたらいいのだろう

命を終えたい泣き声

命に満ち溢れた泣き声

僕の心はもう限界だった

娘をベビーベッドに寝かせた僕は気がつくと僕は川の真ん中で跪いていた


神様どうか、教えてください

神様どうか、救ってください


このまま川の水に溶けていってしまいたい空虚だ、僕は何て無力なんだ。

全て終わりにしたい。死んでしまいたい、僕は何て無責任なんだろう…

突然後ろから誰かに抱きしめられた


「ごめんなさい、ごめんなさい、全部、私のせいなの」

と妻は大声で言う


〝そうだ…お前のせいだ〟


〝お前がマッチをしまい忘れたからだ、あんな小屋を建てた俺のせいだ、不甲斐ない僕のせいだ、だから、もう、やめてくれ〟


〝あぁ、このまま死なせてくれ〟

僕は

僕は

僕は

「あぁぁぁぁぁあぁぁ!!」

大声を上げ妻の首に手をかけ、力を込めた

妻は満足した顔で目を閉じた

その瞬間、我に返り、強く、ただ強く妻を抱きしめた


「唄は、…唄は何処だ?」

僕の手が強く妻の二の腕を掴む


「…私を…責めないでよ、私じゃない私じゃない、知らない、知らない、いらない」


断末魔の叫びの様な声が川の流れる音さえかき消した。


〝嘘だろ…やめてくれ、頼む、生きていてくれ〟


あの日の夜と同じ気持ちに心が焦る、僕は妻を置いて家まで走る、怖くてたまらない、唄…お願いだ、もう二度と我が子を失いたくない、お父さんが馬鹿だった、

どうして唄を置いて僕は…何をやっている不安で怖くてたまらない筈なのに何でだ、頭に共歌の笑顔が浮かぶ。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」


自分の息が自分を嘲笑う


「共歌、妹を助けてやってくれ…」


家に入るとベビーベッドで眠る唄の姿に息をしているか震える手で頬に触れる…


「ふぇぇん、ふぇぇん…」と泣き、僕は肩で息をし、すぐに娘を抱いた


「ごめん、ごめんな…」


僕の涙はとうに枯れていた。

この子を守らなければいけない。

僕はこの数分の間に妻が娘を殺めたのではないかと怖くて怖くてたまらなかった、そんな事を思ってしまう悲しい現実に立ち向かうことを決めた

僕らの事情など娘には関係ない、この子は何の為に生まれてきた…幸せになる権利がある、誕生日には毎年あのおもちゃ屋で好きな物を買ってやる、誕生日ケーキでお祝いをしよう、カッコイイお兄ちゃんがいた事も…

この瞬間から僕は妻に対する気持ちに区切りを付けた。そうでないといけないと子供たちが教えてくれた気がした。

でも分かっている、妻はこれからも僕の妻であり、共歌と唄のたった一人の母親だ。

唄が死んでいるかもしれないと夢中でかけていた時、頭に浮かんだ共歌の笑顔、必ずお前の妹を幸せにするよ、お母さんも笑顔にしてみせる、共歌? そう願っているんだろ?


それから僕は新たな試練に挑戦する事にした。まずは話が通じない上に育児をしない妻と意思疎通の出来ない赤子との生活を始めなければいけないという難しい状況だ

妻は部屋に篭り、トイレや水飲み以外は居間を通らないので唄は僕の部屋に置き、2時間おきのミルク、オムツ替えと睡眠時間などあって無い様なものだ、〝早く首が座ってくれ〟僕は切にそう願った、首が座るまで抱っこ紐が使えないのだ。畑作業の時はベビーカーに入れて常に側に置いた。

唄の鳴き声を聞く度に勇気が湧いてくる、

今を生きると共歌に誓った。



♢♢♢



どれほど涙を流せば終わるのだろう

誰もいない所で息をする

この苦しさの沼から這い出せない


私には両親がいなく、小さな港町の祖父母に育ててもらった。

小さな頃は元漁師だった祖父が釣った魚を祖母が煮つけたり刺身にして食卓に出してくれた。とても愛されているのを感じていた。近所のやんちゃな男の子からは

「オマエの母ちゃん、俺のばぁちゃんみたいだ」と揶揄われた。


〝だっておばぁちゃんだもん〟


いつもそう言いたかったが子供ながらに言ってはいけない様な気持ちがした。父も漁師だったらしい、私が生まれる六日前に漁に出たまま帰らぬ人となった。残された母は悲しみが癒ぬまま私を産んだ。私が覚えている母はいつも泣いていた、母に優しくされた記憶はない若くして未亡人となった母はきっと途方に暮れていたのだろう。

私の四歳の誕生日にチョコレートケーキを買ってきた母は私に言った


「お前が生まれたせいで悟さんが死んだ、お前が男の子だったら愛せたのに、悟さんに似てなきゃ意味がないでしょう」


そう言って私の頭を撫でた母を忘れられない。

その時から私は自分の事が愛せなくなった大好きな母親から憎まれ、父親がいないのは私のせいだと心に染みついた。

母は重度の鬱で朝と昼が逆転しアルコールに溺れ育児など出来ず、見兼ねた父方の祖父母が私を引き取った。

それから直ぐの事だった母が泥酔しながら徘徊し坂道を転げ落ち頭を強く打ちそにまま母は亡くなった。

私は悲しくなかった。

だって、お父さんの所へ行けたのだと安心した。


〝良かったね、お母さん〟


母親の葬儀に涙を流さず微笑む私を見た大人達はいた堪れない表情で私を見ていた。

高校生になった頃、豪快で優しかった祖父が亡くなり祖母も癌を患っていた。


〝高校卒業は絶対にさせてあげたい〟


祖母は高額な治療費がかかる病院へ入院する事を拒否し続け卒業を見届けるかのように祖父が待つ天国へ旅だった。

一人ぼっちになった私は地元で一度就職し二十歳になり祖父母が残してくれた家を売り、貯めたお金で大阪の栄養士短期大学を受験し合格したのを機に小さな港町を出た。

私の事を誰も知らない何処か遠くに行きたかった。

都会の生活は想像以上に肌合わず毎日アルバイトと学業に追われ大変だったが少しずつ生活に慣れ友達もできた。人生がキラキラしていた。

ある日、友人と行った食事の席で潤さんを紹介された。大きな体に似合わず静かに話す彼に強く惹かれた。互いに地元ではなく話も弾み彼から告白されて付き合う事になった。

四年が経ち互いに就職し社会人になった私と潤さんは忙しい毎日にすれ違い別れた。

別れて2ヶ月が過ぎた頃に生理が来ない事に気がついた私は戸惑いつつ妊娠検査薬で自身の妊娠を知る


「父親は誰かな…」


潤さんと別れて直ぐに数人の男性と関係を持った私は


〝彼の子よ〟

と自分に言い聞かせた。


〝私は母親になれるのかしら…〟


そう思っていた矢先に別れてから一度も連絡をしていなかった彼の方から会いたいと連絡をくれたのだ。

〝神様、そうなんですね、彼の子ってお知らせ。大丈夫です、彼によく似た男の子をちゃんと産みますから〟

久しぶりに会う彼はいつもと変わらず紳士的に優しく話てくれる


「元気?」

だなんて言葉はお見通し、ただね、次の言葉に耳を疑った

「僕、彼女が出来たんだ」

だって。


許さない。だって貴方はこの子の父親なんだから


許さない、だって貴方は


私のモノだ・か・ら!


「潤くん、あのね話があるの」

私はお腹に手を当てる

「妊娠したの、貴方の子よ」

目を見開く彼に確信をした。黙って頷く彼は私の目をじっと見つめてこう言った。

「結婚しよう」と。


ほらね。


潤さんは彼女に事情を話し別れて私と直ぐに結婚をした。

数ヶ月後、真夏の暑い日に私は男の子を産んだ

〝神様、言った通りでしょう、彼に良く似た男の子〟潤さんは息子に、【共に歌う】と書いて、共歌ともうと名付けた。

子育てに協力的な夫と夜泣きなどせず育てやすい息子、幸せだ。だから一刻も早く大阪を出たかった、一度寝た男達にばったり会うのではないかと可能性は低くとも嫌で嫌でたまらなった。

夫と子供の将来について話し合い自然豊かな田舎に引っ越す事に決まった。

そして共歌が三歳になり、私はまた誰も私を知らない所へやって来た。

近くに店も無く電気は通っているものの、プロパンガスと山からの湧水をひいている。ここはまるで自分が育った港町の様な過去を思い出させる。


〝仕方がないここで生活をしよう〟


だが、その気持ちも長くは続かなかった半自給自足の生活に徐々に不満が漏れる。


〝私の人生はこれでいいのかしら〟


〝つまんない〟


〝求められて結婚がしたかった〟


私にそんな感情が芽生え始めた、

子供が居なかったらどんな生活をしていただろう、そう考える時間が増えていった、それに比例して共歌が居ない世界を恐ろしく感じた。


〝共歌が居なかったら私は潤さんに必要とされるのかしら…〟


私は、いつも〝それ以下〟の人間なんだと感じた。


 そろそろ幼稚園の夏休みが始まる…毎日家にいるのね、憂鬱だ。朝、起きた瞬間から早く夜になって寝てくれないかと思いながら私は笑顔で「おはよう」と今日も息子に言う

四歳を過ぎた頃から子育てが少し楽になった、一人でトイレを行けるようになり、幼稚園にも行くようになり、子供から少し解放された私は自分の時間を持てる事で、意外だが息子が居なくて〝寂しい〟という気持ちが芽生えていた。


〝これが『愛』なのかしら〟よくわからない。


初めての夏休み初め頃、潤さんが庭に小さな小屋を建てた。その小屋に共歌は大喜び、晴れの日も雨の日も共歌は小屋で遊ぶようになった。こうやって、少しずつ少しずつ私から離れて行くのだと心が少し軽くなる。余程あの小屋が気に入ったのか毎日小屋で泊まりたいと言う。

そんなのは嫌、潤さんもあの小屋へ行ってしまうじゃない。


駄目よ、駄目。


最近はお手伝いを積極的にしたがる、正直面倒だ。食器洗い一つ私がやれば直ぐに終わるのに倍の時間がかかる上にこっそり洗い直さなければならない。もっとも無駄な時間。でも私は笑顔で息子を褒める、誰も私を褒めてはくれないのに…。今なら母の気持ちがわかる気がする、潤さんが居なかったら私もあの女みたくなっていたかもしれない。

吐きそうだ。


夕方になると風呂を沸かす為に薪に火をつける。


「僕もやりたい、やりたい」とねだられる


なんて面倒くさいのだろう、火傷でもしたら毎日手当が大変だし、潤さんは慌てて共歌を病院へ連れて行く。


駄目よ、駄目。


〝毎日、お前は潤さんに一番に愛されてるそれだけで十分でしょう〟


相変わらず小屋で泊まる事に執着する息子に


「次の誕生日にね」

と、まやかした。


時が経てば気持ちも変わるでしょう、そう思っていた。

五歳の誕生日の丁度、一週間前に共歌に聞いた。


「お誕生日は何が食べたい?」


私は眩しい笑顔で問う


まるで向日葵みたく下を向いて見下ろして


「僕…何にも要らない、お父さんとお母さんとずっとずっと一緒にここで暮らしたい、お母さん、いつも、ありがとう。」

満開の桜の様に何一つ偽りのない真っ直ぐな顔で私に言ってくれた。


「ありがとう、」


という言葉を生まれて初めて誰かに言われた瞬間だった。あまりの愛おしさに、ただ、ただ、共歌を抱きしめた。


「ありがとう、お母さんの子供に生まれてくれて」


心から気持ちが溢れ出して思わず言葉にしていた。この子となら私の人生の価値を見出せる、ありがとうの言葉一つでこんなにも心が救われる事があるのだろうか、教えてくれてありがとう、共歌、私は貴方の為に生きると。そう誓った瞬間だった。

私はすぐにケーキ屋に電話を入れた


「バースデー用のチョコレートケーキを一つと、蝋燭を5本つけて下さい」


嬉しさで声が生き生きしている、共歌の好きの物たくさん用意してご馳走を作らなきゃと心が踊る、誰かの為にこんな気持ちになるのは始めてだった。


誕生日当日は朝から汗が滲むほど暑い日でもうお風呂で汗を流したくなる天気だった。共歌はいつものように小屋で遊んでいる、その間に誕生日の準備を鼻歌混じりでした。

潤さんは予約したケーキと誕生日プレゼントを買いに行っている。今日は暑いから早めにお風呂に入りたいだろうといつもより早めに浴槽に水をはった。


「今日マッチ、使ってみる?」

私の問いに共歌は声も出さずに頷く


「危ないからお母さんと一緒にしようね」

共歌は手を胸に当てて

「ドキドキする」とワクワクしている様子だ。


潤さんが帰宅するなり、潤さんの片手に持たれた綺麗な箱を見た共歌は興奮して

「それ、僕のでしょう?」と。


『今渡してあげて』と私は潤さんに目で合図した。


綺麗に包まれた包装紙は小さな手であっという間に破かれた。中身はずっと欲しがっていたトランシーバーだ、共歌は家の床が抜けるくらい喜びながら飛び跳ねた、その日は日が暮れるまでトランシーバーの遊びに付き合わされたが不思議と嫌な気持ちにならなかった。


私は食事の前に風呂の薪に火を着けようと風呂釜へ行くとマッチを早く使いたい共歌が先に待っていた、小屋にいるとばかり思っていた私は少し驚いた


「お母さん、約束忘れてない?今日は僕が火を着けるんだよ」

得意げに言う姿に笑ってしまった。


そして、一度、私が火を着けて見せた、共歌はマッチの箱を手に取りマッチ棒を取り出すと力いっぱい入れてマッチを擦るが力を入れ過ぎて棒の先が折れてしまった。


「もう一回やってごらん、優しく。だよ」


共歌がもう一度マッチを擦ると、パァっと棒の先に火が灯り薪の中に放りこまれた。


「僕、マッチを使える様になったね」と誇らしげだ。


「でもまだ、お父さんには言わないで?明日も僕が薪に火を着けてお父さんをびっくりさせたいんだ!」


これが共歌との最後の約束になった。


夜になり、共歌が寝たのを確認すると久しぶりに私と潤さんは二人きりになり肌を重ねた。そのまま眠りについた私は焦げ臭い匂いで目を覚ました。

庭が赤々と燃えていた。


横にいる筈の潤さんは一足先に庭に飛び出し燃える火の中に入ろうとしていた。

私は潤さんの腕を掴んだ。

どうか中にいないで欲しい、きっと寂しくなって家に戻っていないか確かめた、外を歩き回っていないか確かめた、どこかで泣いていないか耳を澄ませた。


のに。



共歌は死んだ。



なんでこうなったの?許さない、どうして私から共歌を奪うの?許さない、こんな小屋建てた奴が悪い、だから私はこう言ったの。


「あなたのせいよ」


それからは私は感情がコントロール出来なくなった、夕方になると眠るのが怖くなる、共歌がいない夜が憎くなる、私と望んで結婚した訳でもない男が慰めてくる、だから私はお前のせいだ、と罵倒する、それでも彼は私を見捨てない、何故だろう、いっその事殺してくれたらいいのに、そう思いながら朝日が見えると眠りに着く。昼過ぎに目が覚めると涙が溢れる。彼は私を置いて畑に行っている許さない、だから私は自分を傷つける、皮膚から流る血を見ると少し安心した。


彼は家からハサミやカッターを隠した。

意地悪だ、共歌みたいに私を愛して欲しい嘘偽りなく、愛してよ。

しばらくすると彼の方から病院へ行こうと言ってきた。


〝あぁ、そうか。私は捨てられるんだわ〟


そう思うと心が楽になった。


私は彼を愛してる。

私は息子を愛してる。

そうだ、綺麗な服を着よう。


病院は異様な空気で帰りたくなった。何を話せばいいのだろう、誰も私の気持ちなんてわかってくれないのに。

名前を呼ばれ診察室に入ると私は医師を見て息を飲んだ。


〝お爺ちゃんに似てる…〟


淡々と淡々と私はお話をした。


医師がくれた薬を飲み、夜になると眠れる様になった。

明日は共歌の六歳の誕生日。チョコレートケーキでお祝いをしなきゃ。次の日、家に住職さんが来た。でも今日は共歌の誕生日だから顔を出さなかった。夕方、潤さんはプレゼント片手にケーキを買ってきた。


「さぁこれからお祝いをしよう」


今夜は共歌が側に居る気がする。


3人が食卓の席に座り、綺麗に包まれた包装紙を剥がしていく。図鑑が出てきた。字が読める様になったんだ、一緒に読もうね。共歌の歌が聴きたい。可愛い声だった。

一晩中、共歌の話をした。

潤さんが私に触れてキスをした。


嬉しかった。愛されていると感じた。


共歌が寝ているのを感じ私たちは愛し合った。


朝目覚めると朝ごはんの支度がしたくなった共歌が天国に帰る日だから。


しばらくして共歌が私のお腹に帰ってきた


〝神様、ありがとうございます、共歌を私に返してくれて〟


それからは毎日、共歌が生まれるのが楽しみで生きる気力が湧いてきた。


〝もうすぐ会えるからね〟


あの時みたいな暑い日に私は産気づいた。

ほら、共歌が帰ってくる。


共歌、共歌、共歌。


でも、神様は私に罰を与えた。

私によく似た女だった。

母も私を産んだ時、今の私のように絶望したのだろう

果てしない空を見てこう言った



「ちがった」


家に帰ってきた私は空っぽになった。

潤さんはもう、私に何も言わなくなった

娘をうたと名付けたらしい、どうでも良かった。早く共歌に会いたい。共歌を産みなおせなかった事を申し訳なく感じた。

潤さんはこの子を愛するかしら…しばらくして家中に唄の鳴き声が充満する、おかしい潤さんは何処かしら…家中を探しても、いない。まさか私が共歌を産めなかったから…絶望したんじゃないかしら…先に共歌に会いに行く気だわ、やめて、置いて行かないで!私が先に会いに行くのよ!

夢中で当たりを歩き回り探し回ると川の真ん中に跪く彼を見つけた。


「ごめんなさい、ごめんなさい、全部私のせいなの」

産み直せなかった私の…

すると彼は私の首に手をかけて力を込めた


〝そう、それでいい〟


私は彼に微笑んだ。

私を見た彼は手を緩め、唄は、唄はどうしたと聞いてくる。

どうしてだろう…

そのまま彼は私の前から消えて行った

一緒に死んでくれると思ったのに。

悲しかった。

それから毎日、彼は私を気にかけてくれなくなった。唄ばかり気にする。盗られた。

私の彼を盗られた。

もう、感じる全ての事が疲れた

一刻も早く共歌の所へ行かなくちゃ。私を愛してくれている、たった一人の男の子。


『私は心配症のお母さん、貴方を初めて抱いた日、小さくて真っ直ぐに私を見た瞳、いつ何処にいても貴方を感じるの、

今、お母さん、行くからね

共歌 』


♢♢♢


秋になり辺りは紅葉が美しく、やがてくる冬に人々は夏を仕舞う。

季節が記憶に生きて何度でも蘇る景色に影を落とし続けるのではなく、光を与えたい。

唄が生まれて三か月が経ち首も座り毎日

僕の光となって成長していく。

だから、毎日少しずつでいい、少しずつでいいから妻にもまた笑って欲しい、そしていつか、この子を抱いて欲しい、その為に僕は諦めない、もう誰も失わない。

共歌、天国から見守ってくれてありがとうお父さんに希望をくれてありがとう。


僕が唄を健診に連れて家を開けている間に妻は睡眠薬を飲み、物置に火をつけた


妻の葬儀は静かに終わり、線香が静かに落ちていく。

妻を救えなっか自分に腹がたった。どうすれば良かった?問いかけても、問いかけても答えは見つからない。

遺品整理をしていると鍵のかかった小さな箱を見つけた。鍵が見当たらずペンチでこじ開けた。中から共歌の母子手帳が出てきた。

3300グラム 52センチ A型

僕は震えが止まらなかった。

「A型?共歌は…」

僕は頭が真っ白になった。妻はB型、僕もB型。つまりA型の子供は生まれない…。共歌は俺の子ではない。


「嘘だ、嘘だ、嘘だ!」


共歌との思い出が走馬灯の様に頭を巡る。やめてくれ、俺の人生はなんだったんだ…

思わず唄を見て震える

「俺の子か?」

冷や汗が止まらない。

僕はすぐに唄の母子手帳を見た。

〝B型〟ため息と同時に安堵した。鍵がついて箱を睨みペンチを持って力いっぱいに投げた。その音に驚いた唄が泣く、冷静さを保つので精一杯で唄をあやした。

僕の妻はどんな人間だったのだろう、僕が知っている妻は偽物だったのか…僕を愛していたのだろうか…事実を知っても共歌は可愛い僕の子供に間違いは無い。僕が愛した妻はいつから苦しんでいたのだろう。

僕はどこから間違えた…?

僕はどうして気がつかなった?

溢れる涙に答えなど見つかるはずもなかった。

そして僕は彼女の日記を見つける。

見るのを少し躊躇ったが読まずにはいられなかった。

読めば読むほど僕の知っている妻とこの日記の中の人は別人で自分勝手で自己中心的、そして何より〝愛〟に飢えていた。彼女の闇の部分に一ミリも気が付かなかった自分に吐き気がしてきた。


何が彼女をそうさせたのかは、彼女の母親にあるのだろう…この呪われたような真っ黒な日記に僕は火を着けた。燃え盛る炎を見つめ苦しむ彼女の顔が浮かび僕は微笑んだ。と同時にあの日、共歌の誕生日の日の燃える炎を思い出した


「これで終わりにしよう」


それから僕は火が使えなくなった。火を見ると吐いてしまうようになったのだ。

この家を引き払い小さなアパートに越した風呂も灯油で沸きガスレンジは電気にした。簡単に人の心は病んでしまう、あの心療内科に通う今の僕はあの時の妻と同じなのだろうか心と体がモノトーンの僕は。何も間違えていなかったと自分を肯定したい。

真実を知った今でも僕は共歌がいたあの頃を幸せに思い時々帰りたくなる。この気持ちは間違いか?これは病気か?


誰も教えてくれない。

抜け出せない迷路に沼があって這い上がれない


〝これが鬱って奴か〟


妻と同じにはなりたくない、その一心で心を奮い立たせる。そして僕はこれから男手一つで娘を育てなくてはならないのだ。時間という薬と娘への愛が一番の薬だ。殺風景なこの部屋に新しい生活が始まる。


〝僕に出来るのか…〟


息子と妻を救えなかった僕に子育てが出来るのか、どっと不安の波が押し寄せる。

「大丈夫だ、大丈夫。」

と自分に言い聞かせ命と向き合う。僕は一人じゃない、唄がいる僕はまだ死ねない、死ねない、でも死にたい。いっその事全てを忘れて楽になりたい。

限りある命に問いかける。そんな考えの時に必ず唄が泣く。その泣き声は僕を求めている、僕を必要としてくれている。

小さくて力強く泣く娘に励まされる。母親がいない娘は不憫だ、こんな頼りない父親と二人だけで生きて行かなければならないのだから。


「共歌、こんな頼りない僕の息子に生まれてくれてありがとう」


「あゆみ、君はいい妻で良い母親だった、ちゃんと伝えられずにごめん、ありがとう」


溢れる涙は僕の家族への愛で溢れていた。僕の涙が娘の頬に落ちて唄は泣き止み微笑んだ

約束するよ、死にたい気持ちに負けないと

約束するよ、生きたいと思う気持ちに応えると。

迷った時は幸せだった頃を思いだす

何度でも、何度でも。

我が子を抱き、僕は、歌う

名もない 子守唄を


「心吹かれて

 心に触れて

 ただ、紡ぐ

 ただ、紡ぐ

 何処までも 

 さぁ、もう おやすみ」


生と死の狭間で死に急ぐ妻と

命を繋いだ、我が子

生と志の狭間で生きたいと僕は...


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