第八話 午後は眠い、水は重い
昼休み、わたしはとっておきの場所の窓から校庭を眺めていた。薄暗くて、ほとんど人も来ない落ち着ける場所。
今朝急に思いついて家から持ってきた本も、二ページくらい読んでやめた。他にすることも見つからないからここで暇を潰してる。
ふああ……とあくびが出て目が潤った。誰も見てる人なんていないけど、一応口元を手で隠した。
本をすぐ閉じちゃったのは眠いせい。昨日の夜、久しぶりにやったゲームが楽しくてつい寝るのが遅くなったんだ。あー、今日は早く寝なくちゃ。
今朝はあんなに爽やかな朝だったのに、午後になったら急に眠くなった。
どうせあと五分もすればチャイムが鳴るだろうし、このままここで過ごそう。
校庭に出て遊んでいる人はちらほらいる。ボールを蹴ったり、なんかただ走ったり。二人でダンスみたいなのをしてる人もいる。
笑いあって、仲良さそうで楽しそうだなあ。良いなあ……。
そうしていると、ふと思った。
校庭以外で、昼休みはみんなどこに行ってるんだろう?
体育館とか、別のクラスの友だちのところ?
教室にはたしか、わたしが出てきた時には読書をしている人が三人いた。今はどうか分からないけど。
ああ、そうだ。図書室もあった。そこに行ってる人もいるんだろう。図書委員会の人もいるだろうし。
「羽栗ちゃーん! これ、落としたでしょ?」
声をかけられ、ハッと意識がこの場所に戻った。
「……わ」みたいな声を出して横を向くと、同じクラスの千歳ちゃんがこっちを見てやってきた。
わたしにレースのついた白いハンカチを差し出した。畳まれた状態で、ちょうど右下に葉っぱの刺繍が見える。わたしのハンカチだ。
「あ、ほんとだ。わたしの」
ハンカチを落としたなんて気が付かなかった。どこで落としたんだろう?
「ハイッ」と千歳ちゃんはハンカチを渡してくれた。
「……ありがとうっ」
「これ、教室のそばで羽栗ちゃんのポケットから落ちたのちょうど見てたの! すごいよね!」
目をキラキラさせてずいっと距離を詰めてきた。
わたしも素直にすごいと思ったから「うん!」と返す。
「そんですぐ届けようとしたんだけど邪魔が入っちゃってー。まあ相沢たち。ちゃんと届けられて良かったー」
言いながら千歳ちゃんは距離を戻した。
「そうだったんだ」
とても優しくて、エネルギーに溢れていて、なんだか自分より大きな大きな存在に見える。
「教室にいなかったから、こっちのほうかなーって」
「そしたら……いたからさっ」と手のひらをわたしの方に向けた。千歳ちゃんは語尾に星マークが付いたような話し方をする。
そうして、なんだが満足げな顔でジリジリと後ずさり、
「じゃねっ! 羽栗ちゃん。気をつけるんだよー」
「うん、ありがと」
わたしに手を振りながら、何か急いでいるのか早足で去っていった。わたしも手を振った。
優しい、かっこいい……。
千歳ちゃんは人気ものだから、きっと昼休みも色々と忙しいんだろう。
男子女子関係なく、誰に話しかけるのも上手くて、先輩や先生とも仲良し。陸上部に入ってて、クラスの女子の中で一番足が速い。それに面白くて、どこにいってもムードメーカーみたいなかんじ。
身長はわたしとそんなに変わらないのに、脚が長くてきれいなんだ。細いだけじゃなくて筋肉もついてるかんじ。ギザギザしたショートヘアもなんか似合っててかっこいい。
でも、ドッジボールとかでは敵に回したくないタイプかな。
そんなことを考えて、窓のサッシのつるつるした表面を指でなぞった。ところどころにキズがあって、隅には埃が溜まっててそんなに綺麗じゃないけれど。
学校の校舎っていうのはどこもこんなだ。まあ色々な人が使うから当たり前なんだけど。
さっきまで眠かったのに、今は全然だ。千歳ちゃんが来て眠気が吹っ飛んだみたい。
届けてもらって嬉しいし、なんだか申し訳ないし、落としたのがちょっと恥ずかしい。不思議な気持ちでいっぱい。
そしてまた校庭を眺めていたら、近くのスピーカーから、ボッ……みたいな小さな音が鳴った。これは今からチャイムが鳴るって音。
あ、昼休み終わりかあ……。
キーンコーンカーンコーンと、案の定チャイムが鳴り響いた。
やや緊張感のある、日によってすごく嫌な音。
昼休みの優しかった空気が、ザッと別のものに切り替えられたような気がする。
はあ〜、五時間目なんだっけ?
わたしはチャイムを聞きながら朝に確かめた時間割を思い出す。給食と昼休みの文字の次に書いてあった文字は……。
ポンッと頭に浮かんだ。
国語……。あー、また眠くなるかも。
面倒な気分を背負って廊下を歩いた。
いくら上手くいってる日だって、授業が面倒なのは全然変わらないんだ。
外でうるさくカラスが鳴いている。カーカーアワワワーみたいな、喧嘩してるような変な声だ。
僕はパッと目を開けた。
……朝だ!
ビュンと飛び起き布団をたたみ、文机の上に置いていた懐中時計を掴み、廊下へ出た。
廊下を進みながら懐中時計で時間を確認する。
よし、時間は大丈夫! 掃除が始まる時間より三十分も早いぞ。
裏口に置かれた下駄を履いて、少し離れたところにある井戸まで行く。
「誰もいない。僕が一番か」
よし! と思い、気分が良くなった。
井戸のそばには水がたっぷり入った水がめが置かれている。その冷たい水で顔を洗った。
自室に戻り、寝間着を脱いでいつものアラギモの服を纏った。髪を結び、ササッと身だしなみを整え、完成。
さあ、掃除だーーー!
再び部屋を飛び出し廊下を急いだ。
玄関のそばの掃除用具入れから木のバケツを取り、さっき顔を洗った井戸へ向かう。大きめの尺を使って水がめからバケツへ入れた。
さ、持っていくかとバケツの取っ手を掴んで持ち上げようとすると、これが持ち上がらない。まるで地面にべったり張り付いているかのようだ。
あーばか、こんなに水を入れたらそりゃあ重いだろう。少し捨てよう。
量が全体の半分ほどになるように水がめに戻した。
よし、今度は大丈夫だろう。
再び持ち上げてみると、こんな量でもずっしりと重く、手のひらが痛い。
「ぐ……重い」
昨日休楽くんから言われたことを思い出し、腹が立ってきた。
「な、なんでだあああああ……!」
ああ、でも、この朝の水汲みを利用して鍛えれば、僕はさらに強くなれる! 廊下掃除の時はいつも僕が水汲みをしよう。よし、頑張るぞ……!
廊下の前で雑巾を絞っていると、誰かが近づいて来るのが分かった。
「うわ、今日はなんで早いんだよ」
「あ、おはよう休楽くん。遅いね」
休楽くんが首の裏をかきながら来た。僕は勝ち誇った微笑みで返す。ふふ、僕を見て驚いているな。
そして雑巾を絞り終えた僕が今にでも雑巾がけを開始しようとしていた時、休楽くんは気づいてしまったようだ。
「水も汲んできてるし………あ、おいおいこれ」
「ん、なんかあったかー?」
僕は少し焦りながら、すっとぼけて逃げるように雑巾がけを開始した。
「ぶはっ! 水、すっくなーーー!! だっははは! やっぱり重くて持てなかったのかよー」
「だああああ! 水って重いんだよーーー!」
あの後やっぱりだめで、僕はまた水を捨てた。バケツの水は最終的に五分の一程になった。情けないものだ。……しっかし楽しそうに笑うやつめ。掃除をしろ。
廊下を雑巾がけでドタドタ進んでいると、向こうから歩いてくる癒咲くんが見えた。
「朝からうるさいぞ? お前ら。しかし今日は早いんだなーねこまる」
「癒咲くんもちゃんと掃除しろよー」
「するよ」
「今日出ている依頼はこれだ。各班に配分済みだ。しっかりやるように。以上」
アラギモの長である眠杜くんが、相変わらず端的に話し終えた。朝食を食べ終えた食堂で、そのまま点呼、届いた依頼の確認をするというのがいつもの流れだ。
僕は依頼書の貼られている壁に近づいた。
うーんと、三班は……なんだ、依頼は二つか。
「ねこまる、雨見公園の方だってよ」
「早く向かおうぜ」
僕の横にいた癒咲くんと休楽くんが言った。何やらニコニコしていて怪しい二人の様子に察しがついた。
「今日はあれは使わないからな」
真面目なトーンでそう言うと二人は「えー?」と言い、文句言いたげな顔をする。
僕は懐中時計の移動機能を、緊急時以外は使わないことに決めた。
なんて事ない用事で使い続けていれば、さらに壊れて、ものを取り出すための倉庫の機能も使えなくなったり、田舎の別荘にも行くことができなくなったりするかもしれない。
それに、壊れかけの道具で移動するというのは危険だろう。
「さ、二人とも行くぞ」
僕は曲げた腕をぐるぐる回しながら廊下へ向かう。
「えっ、おいおい歩きかよお」
「それ以外何があるんだ?」
面倒くさそうな声を出したのは休楽くんだ。しかし休楽くんは僕よりよっぽど体力があるはずだ。何を言っているのやら。
「仕方ない、今回は歩こう。距離はあるが、体力づくりのためだ。ねこまる、こういうことだろ?」
癒咲くんが言った。
僕はその体力づくりという単語にピーンと反応した。僕が今最もやりたいことは体力づくりであったことを思い出した。
「そ、その通りだ癒咲くん!」
癒咲くん、今日は珍しく体を動かすことに積極的で、とても良いじゃないか!
「ああ、まあ行くけどよ。俺はあの斧を担いで歩くんだからな? それはいくら俺でも楽じゃないわけで。おまえら、ちゃんと遅くても待ってくれよ?」
「ああ当然だろ」
「ゆっくりで全然良い。途中で団子屋に寄っても良い」
珍しく弱気な休楽くんだ。
そう思っていたが、僕は最後に彼がフッと笑ったのを見逃さなかった。
もう二十分は経っただろうか。
僕たちは日当たりの良い坂道を歩いている。
「おーい、遅いなあ癒咲い! ねこまるも」
元気いっぱいで歩く嘘つき休楽くんの声が坂の上から響いてきた。しかし疲れて腹も立たなくなった。僕のずうっと後ろには癒咲くんが歩いていて、ずうっと前には休楽くんが歩いている。
何もこんなに離れて歩かなくても良いのに。
ああそうか、僕が一度止まれば癒咲くんとの距離は縮まる。その分休楽くんとの距離は広がるが、まずはいい。そういうことで僕は一旦歩みを止めた。
僕は今日宣言した通り懐中時計の機能を使っていない。弓矢は直接手で持って移動している。これは軽さが良くて昔から気に入っているのだが、ずっと持っているとさすがに疲れる。まるで時間が経つごとにじわじわと重みが増しているかのようだ。
「な、休楽のやつ……あんなでかい斧持ってるのに、全然速くて、逆に俺たちおいていってるじゃないか」
癒咲くんがブツブツ言いながらヘトヘトになってやってきた。
「そうだな、あいつはいつも僕たちをからかう」
そう言ったあと僕はふと思いつき、その場にしゃがんだ。後ろを向いて手を広げた。
「おぶって行こうか?」
癒咲くんは驚いた顔をした後、ばかにしやがってと言うような顔をした。
「いらない」