第五話 鈴夏と家路
何もかもが上手くいっている今日。学校も終わったし、早く帰ってもいいんだけど、なんだか今日はやる気が湧いて、学校にいる間に宿題を終わらせようと思った。
わたしの学校は、放課後に勉強や読書ができるように図書室が開放されている。わたしは教室を出ると今日はまっすぐ図書室に向かった。いつもはこんなことはしないからちょっと不思議な気持ち。
図書室に入るとそれなりに人がいて、みんな勉強や読書を静かにしていて真面目な雰囲気。大きな窓の前に空いている席を見つけて、そこに決めた。
よし、やるぞー! と意気込んで、授業の最後に「宿題だからやっておいて」と先生に言われた数学のプリントをクリアファイルから取り出した。
なになに、えーっと、まずはこうやってxを出して……。yに代入したら……。よし、できた。
問題形式は授業で出たものと変わらず、宿題はサクサク進んだ。
えへへ、こんなの簡単。
五分くらいで数学のプリントは終わり、今度は漢字の問題がたくさん付いている冊子を机に広げた。宿題のページを開いて問題に目を通すと、ところどころ白い四角で隠された短い文章がこれでもかと載っている。
よし、やってみよう……。
すると今日は漢字の問題もなんだか簡単。まるで今まで眠っていた真の力が目覚めたみたいにスラスラ書けちゃう。
いつもだったらもうちょっと分からない問題があるのに。やっぱり今日は、やけに頭が冴えてる。
……できた。
ふー、けっこう早く出来たかな。机の上で腕をぐーっと伸ばした。
面倒な宿題を片付けられて気分はすっきり。
それじゃあ帰ろうかな。
椅子から立ち上がり、タイルカーペットのザラリとした感触が靴越しに伝わった。振り返って、本棚を見た。……たまには本とか読んでみようかな。
中学校の図書室に入ったのも始めてで、どんな本があるのかも全然知らない。わたしは歩いて行ってどんな本があるのか眺めた。歴史を学べる漫画とか、アニメっぽい絵になった古典文学みたいなのがたくさん置かれているみたい。わたしは適当に物語っぽい本を選んで席に戻った。
本を開いてページをめくると目次が出てきた。どうやら短編集らしい。
とりあえず一つ目の話から読み始めてみた。
最後の行を読み終わって、図書室の壁にかけられた時計を見ると、あれから十分ほど経っていた。
今は、ふわふわと不思議な感情がわたしを支配している。そのままパタンと本を閉じ、手に持って立ち上がった。
ちょっと怖い話だった……! けど、なんか面白かった。
物語の中で出てきた、劇で使うためのリンゴの小道具に、赤い塗料が無いからって言って人の血を塗ったシーンが、なんか変で怖かった。
時間的にもあれだし、今日はここまで。
本を元あった場所にそっと戻して、席に戻った。
筆入れと猫柄のクリアファイルをカバンに仕舞って立ち上がった。
えへへ、図書室で宿題やって、本まで読んで帰るなんて、充実してるなあ……。カバンを背負って図書室の中を歩いた。たぶん私は今ちょっとにやにやしてる。
図書室の扉を締め、まだ新しいピカピカの上履きで、生徒玄関までの薄暗い廊下を歩いた。今の時間は廊下にも玄関にも誰もいないらしい。静かで、わたしの靴音だけが響いてる。遠くからは吹奏楽部の演奏が聴こえるけど。
そっか、みんな部活で忙しいんだね。わたしは部活入ってないからなあ。
入学してすぐの頃のわたしに、部活に入る気力なんて無かった。やりたいことも分からなかったし、すでに部活に入ってる先輩たちと上手くやっていける自身も無かった。
……でも、今はちょっと、部活に入ってないの後悔してる、かな。
上履きを下駄箱に仕舞い、ローファーを取り出してちょっと砂でザリザリいう玄関の床に置いた。ローファーに足を入れ、つま先をトントンとやってから、外へ出た。
校庭の前を歩いて横切った。学校の敷地は少し高くなっているので、帰り道はその分の小さな階段を降りる。校庭の外の歩道へ出た。夕日に照らされたフェンスの暗い影がこっちまでのびている。
そのフェンス越しに見える夕方の校舎とか、ちょっと視線をずらして信号機とかを見つめた。
………。
いつもはこの、心を刺してくるみたいでちょっとヤな景色、今日は全然平気だ。むしろ、なんか良い景色だ。
やっぱり今日はいつもと違う。
ほら、ローファーで歩く時のカツカツっていう音も、背負ったカバンがたまに制服と擦れて出る音も、全然違う。あと、目線もなんか違う、いつもより前を向けるかも。体もなんか軽くて、不思議。
目の前が、はっきり見える。
先週までは、どんなかんじだったっけ。
たぶんもっと、帰り道は疲れてて。学校でも、絶対心に残った嫌なこと五個くらいはあって、それ思い出しながらこの道歩いてたっけ。
なんかもう忘れちゃったなあ。遠い昔のことみたいな。
歩行者用の信号が青に変わって、横断歩道を歩き出す。この横断歩道を渡り切って、ちょっとだけ歩いて左に曲がる。そこをしばらく行くと分かれ道になってて、その左の細い道を進めばわたしの家に着く。
嬉しいな。学校が上手くいって嬉しいし、いつもの帰り道がなんか嬉しい。
花屋さんの電気がついてて綺麗。
ここら辺は小さな商店街みたいになっていて、いつもそれなりに賑わっている。
そしてここを左に曲がるんだ。
建物が密集してて、電線がぐるぐる張り巡らされた昔ながらの住宅街。
あ、良い匂い……。
お店のなのか、どこかの家庭からか、油でひき肉を炒めたような良い匂いが漂ってきた。
今日はとにかくやる気や気力が湧いてしょうがない。まだいろいろ出来そう。
散らかったままの自分の部屋が頭に浮かんだ。
そうだ、帰ったら部屋を片付けよう。今日なら出来そう。そしてその後は、最近やってなかったゲームを久しぶりにやってみよう。小学生の頃ハマってたやつ。
えへへ、こうやってやりたいことが見つかって、どんどん予定が増えていく感覚も久しぶり。
家のそばまで来た頃には、春の夕日はもう沈んで、暗い青が住宅街を包んでいた。
ガチャリと縦長のドアを開けた。
「ただいま」
「おかえりー」と母の明るい声が返ってきた。
家の玄関の狭い空間でローファーを脱いで、柔らかい玄関マットに足を乗せると、足の裏がもふもふした。
ローファーの向きを脱いだのと逆にして他の靴と並べた。底のツルツルしたローファーを脱いだ後のちょっとヘンな足の感覚のまま、手を洗いに洗面所へ向かう。途中、台所でお母さんが作業しているのが見えた。こっちを見て、るんるんっとした声で言った。
「今日ハンバーグ」
「やった」
ハンバーグ! うれしい。食べたかった。また楽しみが一個増えちゃった。
洗面所でハンドソープをもこもこ泡立てて手を洗って、取っ手のついたプラスチックのコップでうがいをした。
階段を上がって自室へ行き、制服を掛け、昨日と同じパーカーとショートパンツに着替える。うん、やっぱりこの服だよね。
部屋に転がっていた香り付きボールペンをペン立てに入れて、カラのペットボトルを片付けて、落ちてた服をハンガーラックにかけた。学校から渡されたもういらないプリントを丸めてゴミ箱に捨てたら……、これだけで部屋が一気に片付いた。
よし、夕飯ができるまでの間ゲームをしよう。
勉強机のそばの引き出しを開け、もう四年は触っていなかったかもしれない携帯ゲーム機を取り出して電源を入れた。
ポワッと画面が白くなり、メニュー画面が表示された。わあ、久しぶりだなあこの感じ。
右上に表示された長方形の中がほとんどカラになって、その中にわずかに残った線が赤くなっていることに気がついた。あっ、充電が!
充電器を探すため、一旦電源を落とした。
ガサゴソと引き出しを順番に開けて探すと、一番下の段にそれらしきものを見つけた。よかった、あった……。
充電器のグチャグチャ絡まったところを直し、コンセントにプラグを刺して、ゲーム機の充電口にも刺した。よし、これで大丈夫!
再びゲームを起動させた。するとゲームソフトが何も刺さってないという表示が出た。そっか、なんのゲームやろう……?
ゲームソフトが何本か入ったケースのありかにピンと来て、さっき充電器を見つけた一番下の引き出しを開けると、やっぱり奥の方に入っていた。
そうだなあ、まずは……『森のわくわく夏休み計画』かな。これはタイトル通りのんびり暮らす系のやつで、モンスターを使って戦ったりはしないやつ。
ソフトをカチッと刺してゲームを始める。
自然背景の優しいイラストのメニュー画面が出た。「つづきから」を選ぶとポンッという音が鳴ってロード画面になった。
三等身の主人公キャラが部屋のベッドで起きた。
ログハウスみたいな家の中は、カラフルな絨毯とか、木製のテーブルがすごくかわいい。よく見たら家具の色々なところには楓の葉っぱ柄がついてて、けっこう凝ってる。
主人公の髪は薄ピンクの三つ編みおさげスタイルだ。
そっか、この髪型懐かしい。ずっと前、ゲーム内の美容室に行ってこの髪型に変更したことを思い出した。
外に出てみよっと。町とか、どんなかんじになってたっけ?
外へ出るため十字ボタンで扉の前までキャラを移動させ、決定ボタンを押すと画面が一旦暗くなった。
再び画面が明るくなると、赤い屋根のログハウスの前に立っていた。家の前の花壇には色とりどりのチューリップがたくさん咲いている。
あ、こういうかんじだったなあ。懐かしい。
そういえば今ってどれくらいお金持ってるんだろう?
メニュー画面を押して持っているお金を確認した。
わ、なにこれ、いちじゅうひゃく……。999999円。すごい、上限かな?
その時、一階から「ご飯できたよー」とお母さんの声がした。そうだった、ハンバーグ食べたい。
「はーい」と返事して、ゲームのメニュー画面を出して、セーブを押した。




