第四話 二つの日常
わたしは学校に着いた。
でも早く着きすぎたみたいで、教室にはまだ誰もいなかった。
そっか、今日はいつもより早く準備が出来たんだもんね。
教室内は廊下に比べてふわっと湿度がある。空気を入れ替えるようなイメージで、戸は開けたままにした。シーンと静かな教室。ある音と言えば、水槽のブクブクの音くらい。
窓際の自分の席にカバンを置いて、なんとなく外の景色を見る。
ここは三階で、高いところから眺める広い校庭は色々なものが見えておもしろい。
遠くの家のベランダの戸が開いて人が出てきた。また別の家で、カーテンを開けたのも見えた。門のそばには犬の散歩をしている人と、登校して来る生徒もちらほら。
いつの間にか窓枠に肘をついて眺めていた。
へえ、一番乗りってこんなかんじなんだ。
外を思う存分に見たあと、教室の後ろで飼っている金魚の水槽を見に行った。ひらひら自由に泳ぐ、色鮮やかな金魚たちをじーっと見ていると、なんだか落ち着く。
わたしもこの金魚たちみたいに、なんか自由に、楽しそうに、どうにかなりたいなあ。
僕はストンッと押し入れの戸を閉めた。
「はあー、これで良しっと」
雪崩のごとく流れ出ていた布団をようやく全て押し込め終わった。
すぐに懐中時計で時間を確認すると、掃除開始の時間ぴったりだ。しかしぴったりではダメだ。この部屋を出て長い廊下を渡った先に当番の者が集まる玄関がある。もうそこへ着いていて掃除を開始しなくてはいけないのだ。
「……おお、こうしちゃいられない」
テカテカとした木の廊下を急いだ。やがて正面玄関の広々とした空間に着いた。
履物を履き替えて外へ出ると、同じく当番が割当たっている癒咲くんの姿があった。僕の方を振り返り言った。
「遅いぞ寝子丸」
ぐぬぬ、少しの遅れも許さない……まったく細かいやつめ。
癒咲くんの手には竹箒が握られている。玄関の外を掃いている途中のようだ。
袖だけ色の違う着物に袴。こちらから見た左前で髪を結び、筆のような太い髪の束を作っている。その筆に関係があるのかは知らないが、彼は絵を描くことが上手い。
「こっちは俺がやっておくから、お前は廊下の雑巾がけをやってくれ。休楽のやつが先に行ってるはずだから」
「はーい」
癒咲くんはくるりと後ろを向き、また箒をサッサッと動かし始め、しっかりやれよーと付け加えた。
さっき廊下を通った時には誰もいなかったと思ったが、水でも汲みに行っているんだろうか。そう思いながら下足棚に履物を戻していると、声をかけられた。
「よっ! 寝子丸」
横を向くと休楽くんだった。頭にハチマキを巻き、いつだってカラッと晴れた夏の空みたいな、底なしに明るいヘンなやつ。きっと悩みなんてないんだろうなと思わせてくれる。
「水汲んできてやったぜ。ねこまるう、おまえ力無さそうだからな。アハハ」
おまけにちょっとイヤなやつ。
袖が捲られ露になった彼のよく鍛えられた腕と、それよりは細く柔らかい僕の腕をそっと見比べた。
「そうかよ」
僕はまるで気にしていないように軽く受け流し、腕捲りをし、彼の持ってきたバケツの水に雑巾を浸した。
確かに見た目だけでは僕の体は筋肉の存在をほとんど感じさせないし、非力に思われるだろう。しかしやつは僕の体に秘められた、数々の修行を積み上げて手に入れた力には気づいていないようだ。
だがまあ、今僕とこいつで腕相撲をすれば完敗するのは明白なので、特に言い返すこともせず僕はギュッと雑巾の水気を絞った。
「先に行くぜー」
やつは準備が出来ると僕より先に雑巾がけを開始した。
「なっ、早っ!」
僕も負けじと雑巾がけを始める。ドタドタと木の床を蹴るようにして進む。ボロ雑巾の苦い匂いと、床板の木の匂いが鼻を刺す。良い匂いではないのだろうが、今日も朝が始まったという感じがして、僕はけっこう好きかもしれない。
「しかし、冷たい……!」
水で絞った雑巾が朝の空気に触れて冷たくなった。手のひらも冷えていく。ああ、これは目が覚めるなあ。そしてこれはやつも同じだろう。
僕はガーッと一気に加速させた。別にやつを打ち負かそうとしているわけでは無い。雑巾がけなど早く終わった方がいいのだ。手に雑巾臭さが染み付いてしまう前に早く洗いに行きたい。そして朝飯をいただくんだ。
そうするとだんだんやつに近づいてくる。僕の気配を察知してチラリと振り返り、煽ったように言う。
「おお、早いじゃんか」
「そうかよっ」
あっ、なんだかこの状況、昨日すずなと走った時みたいだ。
すずなもこんな感じだったんだろうか。相手はちょっとずるくて、それに追いつこうと頑張って、なんだか楽しい。
休楽くんは少し変なやつだ。きっと悩みがあったとしても、それは悩みが無いことへの悩みか、晩飯は大盛りにしようかどうしようかということだけだろう。
名前の字を見ても、休んで楽して、なんてやつだ。
だがまあ、僕の寝子丸という名前もどんな風に思われているのかも分からないしな。人の名前に何を言ってもしょうがないか。
「おっ、もう少しで折り返し地点だ。寝子丸! まだバテんなよ」
「当然だろっ」
ガラガラと玄関の木の戸が開いて癒咲くんが来ると、その円な瞳をさらに丸くした。
「うわっ、お前らどうしたんだよ?」
僕と休楽くんは雑巾を握りしめたまま倒れ、燃え尽きていた。癒咲くんは履物を戻し、僕たちの仕上げた廊下に目をやった。
「掃除は終わったみたいだな。ん? おおー! 廊下すっごい綺麗になってる!?」
その反応に、僕たちは静かにフッと笑いあった。
食堂には、掃除や訓練などの朝の活動を終えてきた者たちが集まり、賑やかになっていた。
ネギとワカメの温かい味噌汁をすすっていると、僕の斜め前に座っている癒咲くんが何かに気がついたように僕を見ている。
「あれ? 寝子丸、鈴は?」
「えっ、鈴……、あ! ない!」
見ると、いつも首にかけていた鈴の付いた紐がそこに無かった。
ガーン! 一体どこで……、あ!
僕は思い出した。川で濡れた時、鈴にも水が入り、なかなか水が取り出せなかった。そこで日当たりの良い所に置いて蒸発させようと思い、たしか縁側に置いてそのままなのだ。
「……あはは、置いた場所思い出したよ」
「寝子丸にしては珍しいなー忘れ物なんて」
横に座っている休楽くんが言った。確かに、忘れ物は珍しいかもしれない。昨日はちょっと、他に気にするところがあったから……、まあいいか。
「しょうがないだろー、昨日はびしょ濡れで、乾かさなきゃいけなかったんだから」
僕は筑前煮をつまんだ。彼らは一瞬「どういう意味だ」という表情を浮かべた。そして休楽くんは笑った。
「あっはは、昨日はよく晴れてただろー。川にでも落ちたのか? 寝子丸は不運なところもあるのか」
「まあいい。食べたら取りに行けよー」
それだけ言って癒咲くんは白米を口に運ぶ。僕は「おう」と返事をした。
こいつらの言ってる鈴というのは、ただシャラシャラと音が鳴るあの鈴のことではない。自分が危険な状況などで仲間に自分の居場所を伝えるという機能まである。
ここでは皆、鈴を身につける決まりになっている。僕は普段は紐をつけた鈴を首から提げている。癒咲くんは斜めに掛けたポーチにストラップのように付け、休楽くんは手首に鈴の付いたリングをはめている。
あれ、そういえば、さっき掃除をしていた時はこのリングはあっただろうか。雑巾がけ中は一切鈴の音などしなかった気がする。
「そういや休楽くん、さっきもそれ付けてたっけ?」
休楽くんは口をもぐもぐさせたまま首を横に振り、ごくんと飲み込んでから言った。
「いいや。汚れそうだしうるさいから部屋に置いてたよ」
「あー、まあそっかー」
僕も今日、あの別荘に鈴を忘れていなくとも、掃除では邪魔になるので部屋に置いていくか、秘密の収納場所に仕舞っていただろうな。
「そんで手ェ洗った後部屋に行って付けてきた。ほら、周りのやつらも結構付けてるし」
確かに周りを見ると、結構の確率で鈴を付けていた。
「……そんじゃ、食べたら取りに行こうかね」
わたしのお腹がぐう……とかっこ悪い音を立てた。
キーンコーンカーンコーンと軽やかなチャイムの音が校内に響き、気付けば給食の時間になっていた。当番になっている生徒たちが盛り付けや配膳など、それぞれの仕事をテキパキこなす。
お腹を空かせたわたしは自分の席に着いた。
机にはたっぷり盛り付けられた給食が並んでいる。
日直の人が「いただきます」と言い、全員で揃って「いただきまーす!」と言う。
野菜炒めを口に運びながら、今日起きたことを思い出す。
数学の時は、なんだかいつもより頭が冴えていて、先生が出した問題をクラスで三番目に解き終わった。
すごくびっくり。いつもは後ろから数えて三番目とかなのに。
体育の時は、今度体力テストでやる五十メートル走の練習をして、なんだかいつもより体が軽くて、いつもより速く走れた。一緒に走った五人の中で一位だった……。すごい、ドキドキする……。わたしよりひとつ前に走って一位だった、クラスで一番足が速い千歳ちゃんにも褒められた。嬉しい。
あと国語の時は、作者の気持ちはなんですかって問題で当てられて全然分からなかったけど、アイウエから選べばいいからなんとなくで答えたら合ってた。他の問題も、全部合ってた……。
はあ……これは本当にすごいことが起きてる。今日はなんだかすごい日みたい。それと……嬉しいことがもうひとつ。
牛乳の隣に置かれた丸いカップを見て口元が緩む。今日の給食のデザートは、わたしの大好物、スペシャルミルクプリン!
今日は休んでる人がいるからプリンが一個余って、この後じゃんけん大会が開かれる。でもわたしはいいの。この一つのプリンをじっくり味わって食べるんだから。
えへへ。こういう小さな幸せが、今日はとっても幸せに感じられる。
読んでくれてありがとうございます!