第三話 カッパと過ごす夜と朝
空は青から水色へのやさしいグラデーション。
澄んだ涼しい空気。ランニングしてる人。犬の散歩をしてる人。駐車場から出てこようとする車。
日が当たってちょっと眩しい誰かの家の屋根。
小鳥のさえずり。自転車のベルの音。カラスの変な鳴き声。
まだ朝になったばかりの世界。
いつもと変わらない景色のはずなのに、なぜか輝いて見える。わたしはいつもこうやって歩いて中学校へ向かう。
ローファーでアスファルトを踏み、コツコツと音が鳴る。頭は日に照らされてちょっとあたたかくなってきた。
シャカシャカと音がなり、自転車を漕いだ学ランを着た生徒がわたしを追い越して行った。
電線やらの流れる景色をぼーっと見ていたせいで、目線を下げた時、思わず驚いた。
三毛猫だ。側溝の蓋の上で動きを止めて、こちらをじっと見ている。
周りを見渡し、振り返ると、五十メートルは離れたところに自転車を押しながら話す生徒が二人。それだけ確かめ「よしっ」と思いわたしはしゃがんだ。
猫の首には鈴はついていなかった。
野良猫……? それか、飼い猫だけど首輪はきゅうくつで苦手なのかも。
えへへ、毛並み良いし、かわいいな。
手を伸ばしてそっと触ろうとすると、猫は一歩下がってしまった。ああ、触られるのは嫌なのかも。
猫を十分見たので、その場を離れることにした。
えへへ、かわいかったなあ……。
交差点が見えてきた。ここで狭い道は終わり。学校への距離はもう少し。……ここでわたしはパッと振り返る。
わ、もういない。
道に猫の姿はもう無かった。路地にでも入ったのかもしれない。
ああ、やっぱりちょっと撫でたかったなあ……。
僕は鈴夏が帰った後、夕日に染った田園を背に、ドロドロとした敵を目の前にしていた。
視線は敵に向けたまま、手に弓を出現させる。持ち上げ、姿勢を正し、敵の中心目掛けて矢を射る。弾かれた矢は粉雪のような銀色のけむりを巻き上げて飛び、敵の身体を突き抜けた。
貫かれた部分から徐々に形が崩れていき、黒い液体をポタポタと滴らせながら、白い煙を出して敵の体は消えた。
手から弓矢を消し、さっきまで敵のいた所へ歩く。
地面に落ちて染みのようになっていた黒い液体も、蒸発するみたいに粒が上へのぼり、シュウ……と白い煙を出して跡形もなく消えた。
それをじっと最後まで見届け、はぁ〜と大きくため息みたいな息を吐いた。
屋敷へ戻る間、蛙たちの大合唱を聞いた。日は沈み、藍色のような空だった。
外は完全に夜になり、ちゃぶ台にランプを置いて日記を書いていると、カッパのカアくんが縁側に近づいてきた。縁側の扉は全部外しているので外の様子はよく見える。
「すずな、帰ったんだナ」
「うん、帰った」
「そっかあ寂しいなあ」と本当に寂しそうな顔をして、カアくんは縁側を上がって僕の方へ来た。
「ねこまるは何をしているんだ? にっきか?」
「そうだよ」と書いたページを見せると、カアくんは覗き込み、数秒後「うーん」という顔をした。
「おれひらがなしか分かんね」
「十分だよ」
平仮名が読めるだけで十分すごい。カアくんは案外頭がいいんだ。
「あれっ、ねえ、今日泊まっていくのか?」
「うん、カアくんも食べていくかい?」
「うん! ワァイ! ねこまるの作る飯久しぶり!」
「………なあ、なんだあこれ?」
あんなに嬉しそうだったカアくんは、今はちゃぶ台に置かれたものを警戒心を込めて見つめている。それは僕の用意したものだった。
「わらび餅みたいなもんだよ。たぶん。まあ一口食べてみよう」
ぷるんとしたものをスプーンですくい上げ、僕が先にそれを味見する。もぐもぐ……ごくん。なるほど、なめらかな舌触りで、もろくてすぐに解けてしまうな。甘くはないけど、特に苦いとか変な匂いがするとかは無い。
「……うん、いけるぞ!」
「へえ。ああ、なんかうまそうに見えてきたかも。おれも食べて良いカ?」
「ああ。だけどあまり味はない。黒蜜をかけて食べよう」
僕はカアくんのためにもう一つ皿に乗せて黒蜜と一緒に持ってきた。ツヤツヤ輝く黒蜜をタラリとかければ、見た目はわらび餅そのものだ。
「わあ、いっただっきまーす! もぐもぐもぐ………んー! うまあ!」
「うんうん、美味いなあ」
僕たちは夢中にそれを平らげた。
「それでさあ、ねこまる。これってなんなの? 最近流行りだしたデザートカ?」
「ああ、これさ、艱難辛苦」
するとカアくんの手からスプーンが落ち、表情は絶望色に変わった。僕は今、カアくんにとっては驚くべきことを口にしたんだ。それは自分でも重々承知だ。
「え、ええええ!? 艱難辛苦ってさ、あの、敵じゃないのカ? 食べても大丈夫なのカ?」
「大丈夫大丈夫、体に害はないからさ。まあ今日のやつは初めて食べたけど」
カアくんは食べ終わった皿を、ちゃぶ台にカタンと力なく乗せた。
「えー、おれぜんぶ食べちゃったよお……。うえぇ」
風呂を上がって、この広い部屋に二枚布団を敷いた。
明かりを消すと、虫の声のする外と部屋の中が繋がったようになった。今日も星は綺麗だ。
枕は縁側にけっこう近い。もうほぼ外と言っても良いだろう。ここは夏の夜の涼しい空気が直に感じられる。
外から何かが来たら真っ先に僕の頭が食われるな。なんて、小さい頃は考えて怖がっていたな。そんなことを思いながらふああ……と欠伸をして、ふと横を向く。
「カアくん、もう寝た?」
顔は反対側を向いているが、スースーと静かに寝息をたてているのが聞こえる。
「僕も寝るかあ……」
頭の後ろで手を組み、天井を見て、目を閉じた。
なんとなく目を開けた。白いシーツのしわが見えた。辺りはいつの間にか明るくなっている。朝か……。
眠い体を無理やりに起こし、ぐーっと伸びた。
目をこすりながら、そばで寝ているであろうカアくんに話しかける。
「カアくん、朝だよ〜 ……あれ?」
隣の布団はもう畳まれていた。カアくんはというと、ゆっくり台所の方からぺたぺたと歩いてきた。くちばしに木の棒みたいな細いものを加えている。どうやら歯を磨いているようだ。
「おお、もう起きてたんだなあ。……なんかカアくん人みたいだなあ」
「歯磨きくらいするよおれだって」
「そっかあ。……あ、今日は僕の班が朝の掃除当番だった」
それを思い出して一気に目が覚めた。テキパキ布団をたたみ、枕を重ね、押し入れに押し込めた。カアくんのもついでに入れて片付けてやった。
急いで井戸の方へ行くと、もう身支度が整ったようなカアくんがピカピカな顔で歩いてきた。水で顔を洗い、振り返ると、そいつはまだそこにいた。
「たはは、ねこまる〜、寝ぐせついてるぞ」
「えっ」
触ってみると、たしかにボサついていた。まあこれくらいなら大丈夫だろう。
うがいをしていると、後ろの方から「ねこまる畳んでくれたのかー、ありがとう」と聞こえた。
うん、やっぱりカアくんは素直なんだよなあと、僕はちょっと笑顔になる。
「時間は、……と、まだ大丈夫だな」
懐中時計で時間を確認した。これは僕にとっては時計以外の役割もある。鏡もついているが、それとも違うもう一つの役割だ。僕は懐中時計を懐にしまった。
髪を結ぶため姿見の前に立つ。ザッと櫛で髪を梳かして、横で結ぶ。……ああ、まあこんなもんだろう。
結われた部分の髪が、少し上や下にハネ、頭のてっぺんの辺りも、うまく流れにそってまとまらず、反抗期のようにややボサボサとしていた。
「それじゃあなあ、カアくん。また会おう」
僕は別れを告げる。
「うん、元気でなあ」
懐から懐中時計を取り出し、蓋を開けて鏡の面を出す。自分の部屋を思い浮かべて鏡に念ずる。
フッと辺りから虫の声が消えたのが分かった。
気温も少し下がった。次に目を開けると、僕は狭く暗い場所にいた。
う……なんだここは。
なんだかとても息苦しい。変な湿気と、やや埃っぽいことに加え、上からぎゅうぎゅうと重みを感じる。ぐえ、つぶされる……。
そこで僕はピンと来た。なんとか手を伸ばして襖を思い切り開けた。開けたその勢いで、僕は布団に挟まれたまま雪崩のごとく部屋に流れ出た。ここでようやく新鮮な空気と外の光を浴びた。
「ははは、嘘だろう。今度は押し入れかい」
昨日は川の中で、今度は押し入れ。
この頃、懐中時計の調子が悪い。
読んでくれてありがとうございます!