第十話 教室の歌姫
「ま、良かったな。助かって」
上から覗き込むようにハチマキ男が言う。
僕は命からがら助かり、人様の玄関前で倒れている。まだ背中が地面にくっついているので身動きは取れず、呼吸もやっと満足にできるようになったばかり……だというのに。
休楽くんからはまるで心配なんてものが感じられない。態度は他人事のようで妙に明るい。不気味にさえ思う。さっきまで艱難辛苦に取り憑かれていたとは思えない。
あれ、まさか取り憑かれていたわけではなかったのか? しかしそんなはずは……。
「うしっ、とりあえず癒咲呼んで来るわ」
立ち上がり玄関へ向かおうとする休楽くんを呼び止める。
「あ、待て……よ」
さっきまで体力を吸われていたせいか声が思うように出なかった。しかしあちらには聞こえたらしく「ん?」と振り返る。
もし仮に、休楽くんは艱難辛苦に取り憑かれていたわけではなく意識がはっきりしている状態だったとしたら、さっきは何をしようとした……?
「……なあ、さっき、斧で……どうする、つもり、だったんだ」
息を飲み、返ってくる言葉をじっと待つ。
そうしたらすぐに「あー、そりゃあ」とやつは口を開く。
「苦しそうだったから、いっそ楽にしてやろうかと」
「……え?」
その言葉はあまりにも爽やかに放たれた。意味は遅れて理解できた。
まるで「部屋が散らかってたからちょっと掃除してやろうかと」ぐらいの口振り。どこか楽しげにも聞こえる。
何を言っているんだよ怖いなあ。こういう嫌な冗談をすぐに言うところも嫌なんだよなあ。
「なん、だ……それ。ひどい、冗談……だな」
文句を言うみたいにそう返すと、休楽くんは「えっ」と驚いたような顔をした。何故そんな反応をするのか僕には分からない。そして笑い出した。
「ははは、なんだなんだ冗談て」
すっかり笑顔を作り、小馬鹿にするみたいに言う。
そんな、待ってくれよ。
まさか本当に、本当にあの状態の僕を見て楽にしてやろうとしてたってことなのか。
そんなわけがないと頭の中で繰り返す。
ああ、だけど。
しかし考えれば考えるほど、僕の知る休楽くんはこれを言ってもおかしくない人間だった。いつも少し不気味で、僕とはつくづく考えがズレている。
視線を休楽くんから少しだけ離した。
斧は地面にただ置かれている。その刃先を見る。
ああ、あれで……。あれで思いっきりぶった斬るとなれば、そりゃあもう。
意識だけがスーッと頭の後ろへ下がっていく。これは知らない感覚だ。視界の中の休楽くんの姿がどんどん小さくなる。
今あった色々な衝撃で、もともと削られていた体力がいよいよ尽きるらしい。
じゃあな、僕は寝させてもらうよ。
あとは頼んだ、家の人とまだ話をしているであろう癒咲くん。
休楽くんがまた僕の名前を呼んでいる気がした。
僕は意識を失った。
!!
手が机から滑り落ちた。
その衝撃でわたしは目を覚まし、今まで寝ていたことを知った。シャーペンが椅子の下に転がってる。
拾ってから、少し周りの様子を見た。しかし図書室にいる生徒たちはこちらを気にする暇もなく、相変わらず読書や勉強に集中しているようでホッとした。
漢字のワークが開かれたままだ。手をつけていない問題が左のページに半分も残ってる。
寝ているのを先生に見つからなくて良かった。
寝るの禁止とかは言われてないし、そういう張り紙があるわけじゃないけど。
それで少しだけ焦るような気持ちでシャーペンを握り、残りの宿題に取りかかった。読み仮名を見て漢字を書く問題はサクサク進んだ。最後の問題はまったくわけが分からなかったけど、ア・イ・ウ・エから選べば良いので、なんとなく「イ」と書いた。
答えの冊子を見て丸つけをしようと筆入れを漁るも、赤ペンが見つからない。きっと教室の机に忘れてきたんだ。
どうしよう取りに行こうか。
だけど図書室から教室へ行くのは少し遠くて面倒。
そういえば放課後の誰もいない教室へは行ったことがない。
夕方の教室の窓からの景色はどんなものだろう。朝の誰もいない教室なら何回かあるけど。夕日に照らされた教室想像かあ……。だんだん興味が湧いてきた。
わたしは行ったとこが無い場所や綺麗な景色が見られるかもしれない場所が、とにかく好きだ。なんでなのかは分からないけど。これがわたしの一つの趣味なのかもしれない。
荷物を全部持って図書室を出た。
夕日の照らす誰もいない廊下を歩いて、階段を登る。吹奏楽部の深みのある演奏が良いBGMになっている気がした。
教室の戸を開け、自分の席まで歩く。大きな窓から外の世界が見えた。
こんなかんじなんだ。
まあたしかに、良い景色。
いつも通りの建物の小さな屋根や街路樹だけど、夕日バージョンだとあったかい雰囲気が出る。
机に手を入れると、指先にカランと何かが当たり、取り出してみると予想通りわたしの赤ペンだ。筆入れに仕舞ってファスナーを閉めていると、どこからか歌声みたいなのが聞こえてきた。ちょっとびっくりした。
わ、なんだろう。どこから?
それは隣の教室から聞こえているのだと分かった。
誰かがこんな時間に歌ってるんだ。
たぶん、すごく上手いってわけじゃないけど、かわいい歌声。
二分くらい聞き入ってしまった。
そしてハッと気が付く。
勝手に聞こえてきたわけだけど、聞いてたことがバレたら面倒なことになるかもしれない。ここはひとまず聞かなかったことにして早く離れよう。
そそくさとカバンを背負って教室の戸を目指すと、急に歌声がピタリと止んだ。
なにこれ。なんか落ち着かない空気。
あまり音を立てないようにそっと戸を開けていると、向こうでもガラガラと勢いよく開かれる戸の音。
うそ、なんでっ!
歌っていた張本人と廊下で顔を合わせてしまった。
わたしを見つけて「あっ」と言った。
肩より長い明るい色の外ハネヘアーにカチューシャをつけた、たしか隣のクラスの子。名前は浮かばない。少しの沈黙のあと、その子はアハハ……と、照れくさそうに頬をかいた。
「えっと」
何を言おうか考えていると、教室の歌姫はわたしの前に歩いてくる。少し緊張する。あっちも緊張している気がした。
「ああえーっと、そうだ! あなたB組の子ね」
その通り。まあ今はB組の教室から出てきたわけだからね。
「名前は、えーと」
「すずな」
「おお、すずなですのね。あたしはミリカですの」
ですの……。
アニメに出てくるお嬢様みたいな話し方だ。
「ね、一緒に帰らない?」
なんか一緒に帰ることになった。
さっきちょっと変な出会い方をした隣のクラスの子。
えへへ、不思議だなあ。嬉しいなあ。
気持ちが弾んで、ちょっと足取りがふわふわしている。
「ねえ、すずなはこんな時間にどうしたんですの?」
「赤ペン取りに来ただけだよ」
「まさか、お家から戻ってきた、とかでははないですのよね」
「さっきまで図書室で寝てて、起きて丸つけしようとしたら無かったから取りに戻った」
並んで階段を降りながら、わたしは簡潔に伝える。
「ふうん、なるほどね。そういえばあたし図書室って行ったことないですの」
おお、この子も本は読まないかんじなんだ。同じだ。
「わたしも今日初めて」
「そうなの? あれ、さっき寝てたって言いましたの? 図書室で」
そう言ってミリカは少し顔をニヤリとさせた。
わたしは「うん」と頷く。
「あららー、睡眠不足ならヨクルト1000とかけっこう良いですのよ。なんか眠れるかんじ」
「そうなんだ」
飲んでみようかな。味けっこう好きだし。
靴を履き替え、外に出た。
「ううー、もうけっこう薄暗いですのね。さっさと帰りましょ」
小さい階段を降りて歩道に出た。
いくつも街灯が灯り、ライトをつけた車がガーっと行き交う。
「ああちょっと待って、あたしのことは聞かないんですの? どうして歌っていたのか、とか」
ミリカは聞いて欲しかったらしい。
「あ、そういえばそうだったね。なんで教室で歌ってたの? すごくかわいい歌声だった」
あれ、すっと本音が漏れちゃった。まあいっか。
「え、かわいかった? そう、ありがとっ」
照れたようににこっと笑った。アイドルっぽいと思った。
「えーっとね、歌ってたのは……、そうね、やっぱり放課後の教室ってなんかこう、歌いたくなる何かがあるんですの」
「そうなんだ」
歩きながらさっきいた教室の窓に目をやった。
そんなに歌いたくなるものだっけか。わたしはどうだろう。
確かに、誰もいないし、ひとりじめできるような気持ちにはなるかも。普段はみんながいる場所だからこそ、静かな放課後の教室は珍しくてわくわくする、のかな。
「すずなもきっと歌いたくなる日が来ますの」
ミリカの言葉がなんだか面白くて口元が緩んだ。
「ふっ、そうかも」
歩行者用の信号が赤だ。わたしたちは横断歩道の前に立ち止まった。
「ねえあたしね、夢が多いんですの。とってもね。毎日いろんなことがやりたくて、それはそれで大変なの。すずなは将来の夢、何かあるんですの?」
将来の夢……。
小さい頃はなんて言ってたっけ。ああでも、今は何もないや。
「うーん、まだ分かんない」
「ま、そんなもんよね。あたしの夢、聞きたい?」
すごく言いたそうにしている。これはとりあえず聞いておこう。もしかしたら、参考になるものがあるかもしれないし。
「うん」
「えーっとまずは、アイドルでしょ。そして歌手。イラストレーター、声優、なんかいろんなデザイナー。漫画家、美容師、パティシエ、それから映画監督なんかもカッコイイですの」
わあ、本当にたくさんある。すごいなあ。それもいろんなジャンル。
中学を卒業して、高校を卒業したら、みんなどんな仕事に就くんだろう。やっぱり意外な子が芸能界に入ったりもするのかな。
「ま、これから見えてくるものもありますの」
信号が青に変わった。向こうからは大きな犬を散歩させているおじいさんが歩いてくる。
白くてふわふわだあ。目も丸くてかわいいな。
横断歩道を渡り切ると、ミリカがいきいきした表情で指をパチンと鳴らした。
「動物系も良いですの」




