第一話 夏がきこえた
一話4000字を目安に書いていきます。
よろしくお願いします。
明かりの消えた部屋のなか、顔をシーツにくっつけて窓の外を見ていた。さっき雲に隠された満月をもう一度見るために。
「あっ」
それは電線の向こうに見えた。ふんわりとした湯けむりのような雲が流れて、満月が顔を出した。窓の形に切り取られた淡い光が部屋に浮かぶ。
満月は明るくてきれいで、また見られてよかった。
この光だけが、今はたった一つの希望みたいで自分でも変に思う。
今は日曜日の夜。まるで人生最後の夜。
だって、明日からまた一週間が始まる。
上半身だけ起こして、手を月に伸ばす。
たまに、月に願わずにはいられない時がある。それが今だった。出来るなら時間を止めて欲しいと思った。だけど、わたしはなるべく叶えられそうな願いにした。
「お願い……、明日は楽しい日になって……」
四月の終わり。
町の桜はほとんど散り、もう蒸し暑い日がたまにある。今日は長袖のパーカーにショートパンツという格好で寝た。
ん……、あれ?
どれくらい時間が経ったのかなんて全然分からない。
いつの間にか、ゴツゴツした岩みたいな感触が足の裏にある。それは冬の廊下くらいには冷たくて、裸足ではけっこう辛い。まだ意識はぼんやりと霧の中で、ただそれだけを思っていた。
ビュウウウという鋭い音とともに、冷たい風がわたしの方へ押し寄せた。
「わっ」
風にあおられた体がガクンと前に倒れそうになって、とっさに冷たい地面に手をついて目を開けた。
「あ……」
手をついた所から数メートル先には崖。底の見えない谷にピンと張られた一本のロープ。
わたしはこの場所に見覚えがある。
『渡れ……、渡れ……』と声が頭に響いてきて、それに逆らうことなくわたしの体は起き上がって歩き出す。鼓動はだんだん速くなって、体は冷えながら汗をかいた。
本当は行きたくないのに、足は止まらない。行かないと大変なことになるような気がして、まるで急かされているように進み続けた。
そしてついに縁まで来て、ロープに片足を乗せた。
大丈夫、これを渡ればいいんだよね。
ロープに体重をかけるとギッと音が鳴る。もう片方の足をロープに乗せると、繊維が足の裏に刺さるような痛みがした。それでももう一歩進むため、また片足を前へと出す。だけど、それ以上は進めなかった。
「あっ」
体が傾いて、わたしは暗い谷へ飲み込まれた。
風がものすごい勢いで刺さってくるみたい。
ああ、今日はここで終わりか。あんまり進めなかったなあ。
いつもならこの悪夢を見た後はすぐに朝になる。
だけど今日は違うみたい。
いい匂い、あったかい……。なんだろう。
気づけば遠くでセミが鳴いている。この騒がしい鳴き声が、なぜかとても好きだと思ったのは、一番楽しかった記憶のなかで流れていた音と同じ気がしたから。
だんだん体がポカポカしだして、むしろ暑いくらいになった。それは夏と呼べるくらいには暑くて、そっと目を開けて、その眩しさに驚いた。
大きな入道雲が浮かぶ、深い青の夏の空。
顔を横に動かすと、サラサラの草が髪や顔に触れた。足の裏にも草の感触。
高めの木くらいの位置を小鳥が二羽、パタパタッと軽やかに飛んでいった。
いったいここが何なのかを知るため、上半身を起こして脚を伸ばした。
見渡す限り緑。原っぱと山と田んぼの光るように眩しい夏の田舎。
「なに、ここ……?」
不思議でたまらなくて声に出した。
なんとなく自分の体を確認する。
どこも痛くなければ傷も見当たらない。
着ているのは寝た時に着ていたのと同じ、丈の長めなパーカーに半ズボン。足は裸足。
二の腕あたりで布がひらひらしているのを見て、パーカーの袖が半袖になっていることに気がついた。
「なんで……」
わたしは不思議に思いながら、まるで最初からそうなっていたような、違和感なく変えられた袖に触れた。そして思った。
「あ、でもこの方が暑くなくていいかな」
ここの気温には半袖の方がちょうど良い。そりゃあそうだ。そう思ったら、それからは気にならなくなった。
それに、ここを夢だと考えれば、色々ある疑問は解決される。
「うん、たぶん夢だ」
さっき見た悪夢とはまた別の夢。だってあの高さから落ちたのに傷のひとつもない。
わたしは立ち上がり、裸足で草に乗っかる。
人は誰もいなくて、見える範囲には家も無い。まるで時間が止まったような嘘みたいな夏の田舎がただ広がっている。
すーっと空気を吸い込んだ。
夢のはずなのに、風の匂いや草の感触がなんだか本物みたい。
なんだかドキドキして、胸のあたりの布をぎゅっと掴んだ。いつかこの場所に来たことがあるような、ないような不思議な気分。
ずっと景気を眺めていたら、なんだかもっと色々な場所を見に行きたくなって、わたしは草の中を歩き出した。
あぜ道に出た。裸足で歩くと、植物やお日様の夏っぽい匂いが包み込む。田んぼに敷き詰まったサラサラの稲も、足元のねこじゃらしも、目に映るものがぜんぶ綺麗。
「えへへ、なんか楽しい」
それから少し経って、歩いている時に遠くから見つけた川に着いた。歩いた後の汗と疲労感が、現実味を持たせた。
川のすぐ横にはたくさんの葉をつけた木が一本。木漏れ日のおちた水面はきらきら揺れている。
そばにしゃがんで、川が流れていくのをただ眺めてみた。そよそよと流れる水の音が心地良い。そーっと手を伸ばして川の水に触れてみた。
「わ、冷たいっ」
その冷たさから、何となく学校のプールを思い出した。暖かい昼間に外で歩き回っていた手の熱さが、みるみると水温に近づいていくのが、なんだか気持ちが良い。
「えへ、なんかここ、良い場所だな……」
自分以外誰もいないこともあって、そう声に出した。心地よい川のせせらぎと木のざわめきに目を閉じて、半分浸した手をゆらゆらと泳がせた。
「満月に願ったから、こんな綺麗な場所に来れたのかな……」
呟いた時、ザバッ……! という水しぶきがあがった。そして自分の腕と脚にも水がはねた。
「わっ……なに?」
とっさに水から手を出して、なんだと思って目を開ける。すると川の中から出てきたずぶ濡れの人と目が合った。驚いて思わず「ひゃっ!」と声を出して体が後ろへ飛ぶ。そしたらなぜかその人も同じように声をあげた。
わたしの方を見たかと思えば、その人は「あっ」と何かを思い出したように水に手を突っ込む。やがて手のひらサイズのものを拾い上げて、水気を払って懐にしまった。
わたしは呆然と見ていた。
まさか川の中から人が出てくるなんて……。あと、この場所に自分以外に人がいたのもびっくり。
川の水冷たいのに、よく入ったままでいられるなあ。そう思っていると、気づけばわたしは膝立ちで向かって行って、手を差し伸べていた。
「あの、大丈夫ですか?」
行動に移してから、別にわたしが手を貸さなくたって良かったかもしれないと思った。その人は一瞬驚いたような顔をして、すぐに柔らかい表情になった。
「ありがとう」
知ってる言葉の響きに、なんだかすごく安心した。
濡れた手がわたしの手を掴んだ。
白や緑を使った和風な服。白い髪に、よく見ると黄色の瞳の……男の子?
最初は年齢性別不詳で、人なのかすら怪しかったけれど、よく見ればまだ幼さの残る、同年代の男の子というかんじの顔立ちをしてる。手も自分のよりは大きい。
わたしは力を入れて引っ張り、草の茂った地面に引き上げた。
少年の髪は横でひとつに括られていて、前髪は真ん中分け。足元を見てみると白い足袋に草履を履いている。なぜか鈴のついた紐を首から下げている。昔の人っぽい格好だけど、それよりゲームやアニメに出てきそうな雰囲気。
少年は「ひゃー、ずぶぬれだあ」と言って服の水気をジャーと絞った。わたしはそばでしゃがんでそれを見ていた。
明るい声……。
虫や鳥の声しか聞こえない夏の田舎に、少年の声は一際目立ってはじけている。
「ああ、本当はこんなところから登場するつもりじゃなかったんだけど」
少年はわたしの方を見て、笑顔のまま困ったように言った。わたしはなんて返せば良いのか迷って、何も言えなかった。
だって、まるで待ち合わせをしていた別の人とわたしを勘違いしているみたい。
そんなふうに思っていると、少年はわたしのしゃがんでいる方へ近づいて来た。わたしはどうしたんだろうと思って、ちょっと見上げるみたいにその顔を見た。
「すずな、今から団子を食べに行こう!」
「えっ」
団子って……、あの、甘くてもちもちの、串に刺さってるやつだよね?
いや、それよりも今、すずな……って。
少年はわたしの名前を言った。
キラキラとした黄色い瞳はまっすぐわたしに向けられている。わたしは自然と返事をした。
「うん」
もしかすれば、少年は本当にわたしを待っていたのかもしれない。だけどこれは夢だから、そういう設定の夢なんだ。きっと。
少年の言う団子屋さんへ向かうため、さっきの川をぴょんと飛び越えて、原っぱを抜けて、今はまた別のあぜ道を一緒に歩いている。ジーワジーワとセミが鳴いていて日差しも強い。
足元に目をやった。
わたしは今、白いサンダルを履いて歩いている。
さっき、裸足だと大変だろうと言って少年がどこからともなく取り出して、わたしにくれた。
確かに、たまに小石を踏んでちょっと痛かったし、歩きにくかったから嬉しかった。「ありがとう」と受け取って履いてみると、すごく歩きやすかった。よく足にフィットしていて、最初に歩いた時よりも軽い足取りになっている気がする。
わたしは後ろを振り返って、歩いてきた道にてんてんと水滴の跡が残っていくのを見た。そしてわたしの右側を歩く少年を見た。
「服、どうするの?」
びしょ濡れのままの少年が心配になって、わたしは聞いた。
「うーん、歩いていればだんだん乾いてくるんじゃないか? それに暑いから、こういうのも案外涼しくて良い」
少年は濡れた服を案外気にしていないらしく、楽観的だった。わたしはその言葉にちょっと親近感を抱いた。
「そっか。……うん、そうだね」
わたしは自分の服の袖に目をやった。これも長袖のままだったら、暑くてこんなには歩けないはず。
きっとこの人は、こういう色々な状況に対応するのが上手いんだ。そして全部楽しんじゃうんだ。わたしも、そんなふうになりたい。
「よし、じゃあ、ここからあの団子屋まで走るぞ!」
「えっ」
突然少年は、あぜ道の先の、まだ小さく見えるだけの木の建物をズビッと指さした。
「位置について……よーい、ドーン!!」
そう言いながら疾風のごとく少年は道の先へと消えた。けっこう自由な人でもあるみたい。
そ、そんな……。でも、わたしも行こう。
「待ってよー」
少年が走りながらくるんっと宙返りしたのを見た。
わたしも実は足だけは遅い方じゃないから、なんだか心に火がついて、負けじと加速させていった。
「ハアッハアッハアッ……」
少年がわざとペースを落としたのか、それともわたしが限界を超えたのか、走りながら少年と並んだ。
「お、速い速い」
「……そうですかあっ」
苦しいながらも言葉を返す。
少年はちょっぴり煽るみたいに言ってきたんだろうけど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。むしろわたしも、楽しんでいる気がした。
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